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震災慰霊堂は、震災による遭難死者58,000人の遺骨を納めるために昭和5(1930)年に建てられましたが、
その後、東京大空襲(昭和20年3月10日)などによる殉難者の身元不明の遺骨も併せて安置することになり、昭和26(1951)年に名称を東京都慰霊堂と改めました。
昭和19(1944)年、昭和20(1945)年の東京空襲での犠牲者はこの公園をはじめ130ヶ所に仮埋葬され、戦後昭和23(1948)年から逐次改葬火葬され、納骨堂を拡張して遺骨が奉安されました。 |
| 06.07.08追記 03.01.21裕・編集 |
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03.01.16撮影 |
| 東京都墨田区横網二丁目 |
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03.01.16撮影 |
| 堂 内 |
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大正12(1923)年9月1日、突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、58,000余人の市民は、業火の犠牲となった。
このうち最も惨禍をきわめたのは、当時横網町公園として工事中の陸軍被服廠跡であった。世論は再びかかる惨禍のないことを祈念し慰霊記念堂を建設することになり、官民協力して広く浄財を募り、伊藤忠太氏等の設計監督のもとに昭和5(1930)年9月この堂を竣工し、東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、また公共慰霊の道場として設計された。三重塔は高さ135尺(約41m)、基部は納骨堂として58,000余人の霊を奉祀し約200坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名法等が祭られてある。
以来年々祭典法要を重ね永遠の平和を記念し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも、昭和19(1944)年、昭和20(1945)年、東京は空前の空襲により連日爆撃を受け数百万の家屋財宝は焼失し、10万をこえる人々はその犠牲となり大正震災に幾倍する惨状に再び見まわれた。
戦禍の最もはげしかったのは昭和20(1945)年3月10日であった。江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約77000余人を失った。当時殉難者は公園その他130ヶ所の仮埋葬されたが昭和23(1948)年より逐次改葬火葬し、この堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、昭和26(1951)年春、戦災者整葬事業を完了したので、東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
横網公園敷地は約6000坪(約2万u)、慰霊堂の建坪は377坪余(約1,250u)、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園、及び大火にも耐え甦生したイチョウの木を称えた大並木が特に植えられている。 |
| 東京都 |
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いとうちゅうた
伊東 忠太
(1867- 1954) |
山形県米沢生れ。帝大工科大学(現:東京大学工学部)卒。工学博士、東京帝国大学教授。
「Architecture」は「造家」と訳されていたが、「建築」と訳すべきと提唱。1943(昭和18)年(建築界はじめて)文化勲章受章。
作品に震災祈念堂(1930年)、築地本願寺(1934年)、上杉神社社殿(1941年米沢)など |
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