広島ぶらり散歩「・・・」編 について
  広島ぶらり散歩の各頁を編集していて行くうちに、同じ項目をまとめていく方が見やすいのではと思い、広島ぶらり散歩「○□▽編」という頁に(それぞれの項目頁に掲載している頁も多々ありますが)現在まとめてきています。
そしてまだまだ項目としてまとめるには少ない頁の項目は、広島ぶらり散歩「その他編」に入れています。
それらの「○□▽編」にまとめたことについての語句解説を考えてみようとしているのがこの頁ですが、まだまだ編集途上ですので中途半端な頁です。これから少しづつ充実していきたいと思っていますので、物足りなさを感じられることでしょうがお許しください。
間違って編集した処もあるかと思いますのでご容赦願っておきます。 08.09.20追記    07.05.10裕・記編集
縮景園   平和記念公園
(めいしょうていえん)
名勝庭園:
国が文化財保護法により、すぐれたものとして指定した庭園。
平和記念公園が国の名勝に(正式に)指定されました。
2006(平成18)年11月17日文化審議会(阿刀田高会長)が伊吹文明文部科学相に答申していましたが、2007(平成19)年2月6日(戦後に整備された公園としてはじめて)国の名勝に指定されたと官報で告示されました。
評価されたところ (通称)原爆資料館、原爆死没者慰霊碑、原爆ドームを一直線に結ぶ設計が特徴で、視覚と慰霊の営みを関連づけられた設計思想。
指定範囲 原爆資料館と原爆死没者慰霊碑、原爆ドームを含む平和記念公園の中心部分の約6.27haです。(平和記念公園総面積約12.2haのほぼ半分の部分です)
(ぶんかしんぎかい)
文化審議会:
文部科学省設置法第29条及び文化審議会令に基づき、文部科学大臣及び文化庁長官の諮問に応じて、国語・著作権及び隣接権・文化財・文化功労者の選定及び文化・芸術全般に関する基本的な事項を調査審議すること等を目的として2001(平成13)年1月6日に旧国語審議会・著作権審議会・文化財保護審議会・文化功労者選考審査会を統合し、設置された審議会です。
被爆建物について
被害の状況 原爆の強烈な爆風と熱線は、爆心地から2km以内の建物をほとんどすべて破壊し、焼き尽くしました。
2kmを超える地域でも、木造の建物は大破以上の被害を受け、当時の広島市内の建物の9割が壊滅的な被害を受けました。
被爆建物の規定 木造建物が全壊全焼地区の縁辺部である、比治山の下、牛田、広島駅裏附近で現存しています。
さらにそれ以遠の矢賀、仁保、宇品、江波、己斐、草津、祇園方面で、広島市が被爆建物と云っている建物が残っています。
爆心地から5km付近でも建物が傾くなどの被害の痕跡をとどめていることが多いことから被爆建物はほぼ5km以内の建物で寺院や神社などの公共性の強い建物を広島市は被爆建物と呼んでいるようです。

(しかし、住宅やその付属屋を含めると現在でも爆心地から5km以内でまだまだ多数の被爆した建物が残っていますが、これらは個人のプライバシーの観点などからでしょう被爆建物とは呼んでいません)
被爆した構築物等
ひばく
被爆
1)爆撃をうけること。
2)特に、原水爆の被害をうけること。
(こうちく)
構築:
組み立てて築くこと。築造。
construction
構築物:構築したもの
(けんぞう)
建造:
建物・船舶など大規模な構造物をつくること。
building
  建造物:家屋・塔など、建造したもの。
こうぞう
構造
1)全体を形づくっている種々の材料による各部分の組み合わせ。作りや仕組み。
structure; construction
構造物  構造したもの
(けんちく)
建築:
家・橋などをたてること。また、建造物。狭義には、建築物を造ることをいう。普請(ふしん)。作事。
building;(術)architecture
建築物:1)家屋など、建築されたもの。たてもの。
      2)〔法〕 土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱もしくは壁を有するもの。
(こうさく)
工作:
1)材料に手を加えて器物を作ること。
2)土木・建築・製造などの作業。
工作物:1)材料を加工して組み立てたもの。製作品。
      2)〔法〕 建物・塀・橋などのように土地に接着して設置されたもの。
(けんせつ)
建設:
2)建築物・土木施設などを造ること。
construction; erection; building.
被爆した樹木一覧
樹木の原爆による被害 資料:広島平和記念資料館発行「ヒロシマの被爆建造物は語る」を参考にしました。
被害は、爆心地から2000m以内で約50%ほど幹が折れたとされ、2000m以上では爆風により倒壊した樹木は認められていません。
  (広島市外周:己斐町や牛田町などでは爆風により折損した樹木は無かったとされている)。
爆風以外でも、周辺の火災により焼失した樹木も多かった。
  (爆心地から400mの国泰寺・天然記念物の大クスも火災により焼失した)
竹の幹の焼けあとは7km〜8kmまでおよんだ。
被爆樹木とは
現存するもの。
対象範囲:全壊全焼地域(爆心地から概ね2km以内)で被爆した樹木。
広島平和記念資料館  世界平和記念聖堂   厳島神社  新日山安国密寺・不動院
(じゅうようぶんかざい)
重要文化財:
日本に所在する建造物、美術工芸品等の有形文化財のうち、重要なものとして文部大臣が指定したもの。
世界文化史上価値の高いものは国宝として指定。重文。文化財保護法第27条の規定に基づく国指定。
(こくほう)
国宝:
重要文化財のうち、特に文化史的価値の高い建築物・美術工芸品・古文書など。
文部大臣が指定し、国が保護・管理する。文化財保護法第27条2項の規定に基づく国指定。
(ぶんかざいほごほう)
文化財保護法:
文化財を保存し、その活用を図り、国民の文化的向上と世界文化の進歩に貢献するための法律。
1950(昭和25)年制定。
「道路」編
(りつりょうじだい)
律令時代:
日本の古代において、律令が政治支配の基本として独自の役割を担った時代。
広義には7世紀半ばから10世紀頃までの間、狭義には奈良時代と一致する時代をさす。
(りつりょうせい)
律令制:
大宝律令・養老律令に規定された諸制度。また、律令格式によって運営され、規定された政治体制。
(たいほうりつりょう))大宝律令: 日本古代の基本法典。701(大宝元)年制定。律6巻、令11巻。刑部親王(おさかべ:?-705:天武天皇の皇子)・藤原不比等(ふひと:659-720:鎌足の子)らの撰。七世紀以来の諸制度の法的整備を示し、757(天平宝字元)年養老律令施行までの国家の基本法となった。現存しないが、養老令の注釈書「令集解(りようのしゆうげ)」などによりその一部が知られる。
(ようろうりつりょう)
養老律令:
718(養老2)年、藤原不比等らが、大宝律令を若干修正して編纂した律・令各10巻。757年より施行。律の大半は散逸。令は大部分が現存の「令義解(りようのぎげ)」の本文に残る。
(えんぎしき)
延喜式:
平安中期の律令の施行細則。50巻。
905(延喜5)年藤原時平(871-909:左大臣)らが醍醐天皇(885-930:第60代天皇在位897-930)の命により編纂を始め、時平の死後藤原忠平(880-949:摂政、関白)らにより927(延長5)年完成。
施行は967(康保4)年。弘仁式・貞観式を踏まえて編まれたもので、のちの律令政治の基本法となった。
ごき しちどう
五畿七道
律令制の基本行政単位である国の上部に設定された地方行政上の地域区分。
五畿は山城(京都府)、大和(奈良県)、摂津(大阪府・兵庫県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)の五か国。
七道は、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道をさす。
諸国はこの七道に編成され、また大・上・中・下の等級があった。五畿七道の区分は以後日本の地方区分の基本となった。
(こだいさんよう どう)
(古代)山陽道:

(※影面の道)

古代尺
一里=約500m
古代、律令期における国の上部の地域単位である五畿七道の一つ、およびそこに設定された官道の名称。
中国地方の南側にあたり、734(天平6)年に安芸、周防の国境が定められて、播磨、美作(みまさか)、備前『延喜式』では以上近国)、備中、備後(以上中国)、安芸、周防、長門(以上遠国)が確定しました。
美作以外の瀬戸内海側を京と大宰府を結ぶ古代の最重要路山陽道が貫通し、原則として駅馬20〜30疋(ぴき)が常備されていました。
山陽道には30里(約16km)ごとに駅家が置かれ『延喜式』では安芸国には13駅が置かれ、山陽道の駅数は合計54駅だったそうです。
広島市域では、荒山・安芸・伴部・大町の4駅が置かれ、安芸区方面から府中町・安川・石内川・廿日市市方面へと結ばれていました。
※古代日本では太陽の出没方向の東西を日縦(ひたて)と呼び、直行する地軸方向の南北を日横(ひよこ)と呼んでいました。山稜の南斜面を影面(かげとも)、北斜面を背面(そとも)と呼び、日縦の山陽道を影面の道と呼び、山陰道を背面の道と呼びました。
(えきか)
駅家:
律令制で、駅使や官人の往来、あるいは文書の伝達のため、宿舎・食糧・人馬などを供した施設。
駅長が駅子を指揮して運営した。駅亭。うまや。
(うまや)
駅家:
古代の駅制により山陽道諸国には、「駅家」が置かれ駅館(うまやたて)が建てられました。
本瓦葺の駅館からは、駅子によって伝馬の交行や通信が行われました。
安芸郡府中町の下岡田遺跡は、早馬立の地名から安芸駅家跡の想定地になっています。
(えきし)
駅子:
律令制で、駅戸の課丁。駅家の仕事に従事し、徭役が免除された。駅丁。役丁。
(ようえき)
徭役:
律令制下の労役の総称。特に、雑徭と歳役。
(ぞうよう)
雑徭:
律令制で、公民に課せられた労役。正丁は年60日、次丁は30日、少丁は15日を限度とし、国司の指揮で土木工事などの公役に従事するもの。のち軽減された。ざつよう。
(さいえき)
歳役:
律令制下、京畿以外の正丁に課された年10日間(次丁は年5日間)の労役。都で土木事業に使役するためのものであったが、実際には行われず、代わりに庸として布や米で納めた。
(せいてい)
正丁:
律令制で、21歳以上60歳以下の健康な公民男子。のち22歳から60歳、22歳から59歳とされた。庸・調・雑徭・兵役を負担した。しょうてい。せいちょう。
(じてい)
次丁:
律令制で、老丁(ろうてい:61-65歳、後に60-64歳)、および正丁の年齢に相当する残疾(ざんしつ:身体に障害や病疾を持つ者)をいう。じちょう。
(えどじだい)
江戸時代:
徳川家康(1542-1616)が関ヶ原の戦い(1600年=慶長5年)に勝利して、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開いた1603(慶長8)年から徳川慶喜(1837-1913)が大政奉還した1867(慶応3)年までの265年間。
徳川時代。近世。幕藩体制時代。
(せいいたいしょうぐん)
征夷大将軍:
1)平安初期、蝦夷(えみし)征討のため臨時に派遣された遠征軍の指揮官。
大伴弟麻呂(731?-809)・坂上田村麻呂(758-811)・文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ:765-823)などが任ぜられたが、以後中絶。
2)鎌倉時代以後、幕府政権の長たる者の称。征夷将軍。将軍。
(ごかいどう
五街道:
江戸を起点として本州中央部を走る最重要の街道。
江戸時代には一般に、東海道(品川〜大津、延長して守口)、中山道(板橋〜守山)、日光道中(千住〜鉢石)、奥州道中(白沢〜白川)、甲州道中(内藤新宿又は上高井戸〜上諏訪)をさし、それぞれにはいくつかの街道が付属した。
この五街道と付属の街道は、それが藩領内であっても、幕府の道中奉行が直接支配した点に特徴がある。
(さいごくかいどう)
西国街道:

(近世山陽道)
近世には京都と長崎を結び、江戸へ続く主要街道で、山陽道の名でも呼ばれている。
17世紀現在の形にできた西国街道は、当時陸上の大動脈として文化、社会の交流に役立っていた。これが基になって、今の国道2号になっている。
江戸幕府は三代将軍家光の時、五街道と脇街道を設置しました。
山陽道は脇街道となり、この街道は当時は西国街道または西国往還と呼ばれ、大阪から下関まで道幅二間半(約4.5m)と定められ整備されました。
これらのことは、寛永10(1633)年幕府巡視使の巡視を契機としましたが、寛永12(1635)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であったのです。
広島藩内の宿駅には、広島城下の東の愛宕町界隈や西の堺町界隈をはじめ、西から玖波、廿日市・海田市・西条四日市・本郷・三原・尾道があり、参勤交代や多くの交易に利用されました。
(じゅんけんし)
巡見使:
江戸幕府の職名。将軍の代替わりごとに諸国の政情を視察した職。
(ぶけしょはっと)
武家諸法度:
江戸幕府が制定した大名統制の基本法令。
徳川家康は覇権確立以降、幕府を創設し、全国統治権に対する倫理的基礎を公的に確定したうえで、法の制定と制度の整備・運用を通じて大名統制を強化した。
1615(元和1)年大坂落城後、6月には「一国一城令」を発布して、大名の本城を除くすべての支城を破壊させたうえで、1616年7月「武家諸法度」を制定・公布した。この元和法度は、2代将軍秀忠の名をもって発布したもので、全13ヶ条よりなる。
その内容は、大名の教養・品行、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、城郭修理の報告、徒党の禁止、婚姻の許可、参勤作法、大名の国政などについて規定した。
その後、寛永法度、寛文法度、天和(てんな)法度、宝永法度と、「武家諸法度」は将軍の代替りごとに必要に応じて改訂された。
(わきかいどう)
脇街道:
江戸時代、五街道などの本街道以外の支街道。水戸街道・中国路など。
脇往還(わきおうかん)ともいう。
(しゅくば)
宿場:
江戸時代、宿駅の称。公武の宿泊は問屋場・本陣・脇本陣を、一般旅行者は旅籠を利用しました。
江戸時代に五街道をはじめ脇街道において、駅伝(驛傳)の事務を扱うために設定された町場のことで、規定の人馬を常設し不足の時は助郷を徴発しました。
公用の人馬の継ぎ立てや公式の宿泊に本陣(広島藩では御茶屋)・脇本陣・問屋場が、他に一般の旅籠・茶屋・店舗などがありました。
(すけごう)
助郷:
江戸時代、宿場常備の人馬が不足する場合、幕府・諸藩によって人馬の提供を命じられた付近の郷村。また、その夫役。初め臨時的なものであったが次第に恒常化し、農村疲弊の大きな原因となりました。
(といやば)
問屋場:
江戸時代、街道の宿駅で人馬の継ぎ立てなど種々の事務を行なった所。伝馬所。とんやば。
(はたごや)
旅籠屋:
江戸時代、旅人を泊め、食事を供することを業とした家。
公用以外の武士や一般庶民が利用した。はたご。
(ちゃや)
茶屋:
2)旅人が立ち寄って休息する店。掛け茶屋。茶屋小屋。茶店(ちやみせ)。
3)客に遊興・飲食をさせる店。水茶屋・引き手茶屋・色茶屋・芝居茶屋・相撲茶屋など。
(しゅくえき)
宿駅:
交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落。
鎌倉時代以降発達し、江戸時代には宿場町となりました。しゅく。
(えきせい)
駅制:
(駅伝)
陸上交通制度の一つ。唐の制度にならって大化の改新に始まり、大宝令に至って制度的に確立。
都と各国の国府を結ぶ幹線道路に30里(約16km)ごとに駅を置き、各駅に駅馬を備えて緊急の官用通信にあて、また別に、諸国の郡家(ぐんけ)に伝馬(てんま)を置いて通常の官用通信にあてた。
駅戸の負担過重などにより、律令体制の崩壊とともに衰えました。
(ほんじん)
本陣:
2)江戸時代、宿駅で諸大名などが宿所とした公認の旅館。
(わきほんじん)
脇本陣:
江戸時代、宿駅の本陣に次ぐ宿舎。本陣に空きのない場合の予備にあてられました。
(あいのしゅく)
間宿:
宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合に宿場と宿場の間に自然発生的に成立した休憩用の町場です。
公的には宿場と認められていないため旅行者の宿泊は禁止されていたそうですが。
西国街道難所の一つ大山峠を前にした(上瀬野)一貫田宿には本陣が置かれたそうです。
(いちりづか)
一里塚:
街道で一里ごとに道の両側に土を盛り、多くは榎(松などもある)を植えて、距離を示し旅人の目印とした塚。
1604(慶長9)年江戸幕府により江戸日本橋を起点として、東海道・中仙道・北陸道に設置されたのがはじまりで、全国に設置されました。
西国街道にも江戸初期寛永年間(1624〜1643)に既に設けられました。里程標(りていひよう)。
(かいどうまつ)
街道松:
街道の景観に変化をつけるため両側に植えたれた松並木のことです。
戦国時代は脇街道に松並木が一条に延び、江戸時代には五街道をはじめ西国街道では約三間(5m強)ごとに植えられました。
広島附近では現在、廿日市街道松1本、佐伯区楽々園3本、安芸区砂走の出迎えの松6本の計10本が残るのみとなっています。
(わたしば)
渡し場:
船で人・車などを対岸に渡す所。渡し。渡船場。渡り場。
渡場とは、渡し銭(賃)をとり、人馬・荷物などを船で対岸に渡す所。
番小屋があり、渡し守が常駐していました。渡しのある地域は船運の交易地として栄えたといいます。
日本の道100選: 1986(昭和61)年に、道の日の制定を記念して建設省と「道の日」実行委員会により制定された。
日本の特色ある優れた道路104本があるそうです。
「道の日」
8月10日:
[ 制定の目的 ]
道路は国民生活に欠くことのできない基本的な社会資本ですが、あまりに身近な存在のため、その重要性が見過ごされがちなので、道路の意義・重要性について、国民に関心をもってもらうため。
[ 選定の理由 ]
1)1920(大正9)年8月10日に我国で最初の道路整備についての長期計画・第1次道路改良計画が実施された。
2)8月の 「道路ふれあい月間」(2001年度より「道路をまもる月間」から名称変更)期間中であること。
広島の神社仏閣ぶらり散歩
(さんごう)
山号:
寺院の名の上につける別称。初めは寺院の所在地の山名によったが、鎌倉時代以後は平地の寺院にも及び、別称として一般化した。
「身延山久遠寺」の「身延山」、「東叡山寛永寺」の「東叡山」の類。
(じごう)
寺号:
寺の正式な名称。
さんもん
山門
(寺院は山林にあるべきものとして山号を有したのでいう)寺院の門。
(しょうろう)
鐘楼:
寺院の、梵鐘(ぼんしよう)をつるす堂。かねつき堂。しゅろう。
(きばな)
木鼻:
社寺建築で、頭貫(かしらぬき)などの端が柱から突き出た部分。
多く、装飾として象や貘(ばく)などに似せた彫刻が施され、象鼻・貘鼻・拳鼻(こぶしばな)などと呼ばれる。
(ばく)
貘;獏:
2)中国の想像上の動物。体形は熊に、鼻は象に、目は犀(さい)に、尾は牛に、足は虎に似るという。人の悪夢を食うという。
※象(耳が大きく)、獏(耳が小さ)とは耳で見分けると教えていただきました。

1)奇蹄目バク科の哺乳類の総称。体長2〜3m内外。体形はカバに似る。鼻と上唇が結合して長く伸びる。体毛は短く疎生する。密林の水辺に生息し、木の実などを食う。中南米に分布するアメリカバク、東南アジアに分布するマレーバクなど。
(きりん):
麒麟
2)中国古代の想像上の獣。体は鹿(しか)、尾は牛、ひづめは馬、額は狼。頭に肉に包まれた一本の角があり、体の毛は黄色、背には五彩の毛がある。翼をもってよく飛び、生草は踏まず、生物は食わないという。聖人が出て王道が行われた時に現れると伝えられる。一角獣。〔一説に雄を「麒」、雌を「麟」とする〕
(ぞう)
象:
長鼻目ゾウ科の哺乳類の総称。
中新世頃から栄え、化石で発見される種は多いが、現生種は大形のアフリカゾウ・アジアゾウの二種のみ。長い鼻は、鼻と上唇が伸びたもので、内部には骨格がない。上顎(じようがく)門歯は長く伸びて牙(きば)となる。現生の陸生動物中では最大。
仏教では白象を神聖視する。古名、きさ。
(こうりょう)
紅梁:
社寺建築に用いる、やや反りを持たせて造った化粧梁。
(かしらぬき)
頭貫:
柱と柱を上部でつなぐために柱の頭部に用いる横木。
(かえるまた)
蟇股:
蛙がまたを広げたような形から】
社寺建築などで、頭貫または梁(はり)の上、桁との間に置かれる山形の部材。
本来は上部構造の重みを支えるもの。のちには単に装飾として、さまざまに彫刻して破風などにつけられた。
厚い板でできた板蟇股と中を透かした本蟇股とがある。
「マンホール蓋」編  
マンホール 下水道・暗渠(あんきよ)などで、路面から人が出はいりできるように設けて蓋(ふた)をした穴。
manhole man(人)+hole(穴)=(日本語では)人孔といわれますが、辞書に潜孔ともありますがわたしは聞いたことはありません。暗渠式下水道などで作業員が路面から出入りするために地表に作られた穴。一般的に鉄製のふたがしてある。
「道標など」編
(どうひょう)
道標:
通行人の便宜のために、方向・距離などを記して道端に立てる案内の立て札。木や石でつくる。
a guidepost; a signpost; a milestone.
(みちしるべ)
道標;道導:
1)道の行き先や目的地までの距離などを示して道端に立てるもの。
a guide; a signpost.
(どうろ・げんぴょう)
道路元標:
道路の起点、終点の基準となる標識を道路元標といい1919(大正8)年道路法によって各市町村に置くことが決められ、道路に面し最近距離で路端に標石を設置することになっているそうです。
(ほうれん)
鳳輦:
屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿(こし)。土台に二本の轅(ながえ)を通し、肩でかつぐ。
天皇専用の乗り物で、即位・大嘗会(だいじようえ)・御禊(ごけい)・朝覲(ちようきん)・節会(せちえ)など、晴れの儀式の行幸に用いた。鸞輿(らんよ)。鳳輿(ほうよ)。
ぎょうこう(ぎょうごう)
行幸:
天皇が出かけること。みゆき。
※行き先が二か所以上のときは「巡幸」という→行啓(ぎようけい)
(ごこう)
御幸:
(天皇の「行幸」に対して)上皇・法皇・女院の外出。
(ひつ)
蹕:
天子の行幸。天子のお車「駐蹕」「鳳蹕」。
  三角点、水準点について   「水準点・三角点など」編
(さんかくてん)
三角点

 三角測量によって地球上の位置(経緯度)が正確に決められた測地の基準点、またその標識。1等から4等まであります。station of triangulation。
花崗岩製の角柱が埋設してあり、その位置を示しています。これを三角点標石といい、この標石が破損、亡失した場合にも位置がわかるように、一等および二等三角点では標石の真下に花崗岩製の磐石(ばんせき)が埋設されています。三角点は互いに見通せる地点に選ぶため、山頂に設けることが多いが、見通しさえあればよいので、かならずしも最高点に設けるとは限らず、平地に設けられた三角点も多くあります。
現在国土地理院発行の地図は、全国を単一の基線から測量すると末端での誤差が大きくなるので、14の基線を設置して各基線から三角網を拡大していき、隣接する境界で誤差の少ないように配慮しているそうです。
一等三角点: 設置間隔は45km、必要に応じて補点が設置されます。
全国に972点 、柱石の一辺は18cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には2枚の盤石も埋設されています。
二等三角点: 設置間隔は8km
全国に5056点 、柱石の一辺は15cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されています。
三等三角点: 設置間隔は4km
全国に32699点 、柱石の一辺は15cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されています。 2万5千分1地形図を作成するための位置の基準としては、以上の等級の三角点で充足されます。
四等三角点: 設置間隔は2km
全国に64557点 、柱石の一辺は12cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されています。地籍調査又はこれに相当する調査の測量の基準点として、国土交通省土地・水資源局国土調査課の委任を受け、国土地理院が設置しています。
三角点の歴史   日本の近代測量の基本となった三角測量は、工部省測量司が明治 4(1871)年英国人 マクヴインの指導のもとで、東京府下に13点の三角点を設置したことに始まります。その後、明治15(1882)年には、この三角点の選点 100点が終了し、明治17(1884)年からは陸軍省参謀本部測量局(明治21年陸軍参謀本部陸地測量部)がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。参謀本部では、8年間のドイツ留学から帰朝した(明治15年)田坂虎之助が現在の測量作業規程に当たる「三角測量説約」を完成させ、本格的な一等三角測量に着手し、この時点から測量はフランス式からドイツ式に変更されました。
一等三角測量は大正2(1913)年にはひととおりの観測が終了し、一応の完成をしました。
その後、千島や、樺太、台湾といったいわゆる外地の測量が実施され、そのあとは地殻変動をとらえる目的も併せ持って、繰り返し測量が実施されて現在に至っています。ただし、近年はGPSなどの測量技術が進歩し三角測量はほとんどされなくなっているそうです。
(さんかくそくりょう)
三角測量:
 地上の互いに見通せる3点を選んで三角形をつくり、その一辺の長さおよび二夾角(きょうかく)を測定して、三角法により他の二辺の長さや頂点の位置を求める測量法。三角形を多数接続させて広い範囲の測量を能率よく、かつ精度よく行えます。triangulation
三角形の集合を三角網というが、鎖状につないだ場合は三角鎖(さ)といい、広大な地域の骨組みとしての三角測量の場合に使われます。
(にほんすいじゅんげんてん)
日本水準原点:
東京都千代田区永田町1−1国会前庭北地区洋式庭園(尾崎記念公園)の一角にあり、日本の高さの原点として、あらゆる標高測量の出発点となっています。
測量法施行令第2条では原点の数値として、東京湾平均海面上24.4140mと定めています。
これは1873(明治6)年6月から1879(明治12)年12月までの東京湾(隅田川河口の)霊岸島で測定した観潮結果を基準として東京湾の平均海面を0mとして決めたもので、当初は24.5000mになるように建設されたが、1923(大正12)9月1日午前11時58分関東大震災による地殻沈下のため現在の値に変更されました。
第2次世界大戦の戦災を免れ、日本水準原点標庫も健在で、その建物に固定された水準標石の水晶板の零分画線の中点が水準原点となっている。
原点の礎石は地下10mあまりの堅固な地層から築いてあるそうです。
※現在では、
神奈川県三崎の油壷験潮場の潮位観測と、定期的に行われる原点・水準測量によって、原点の高さを点検しているそうです。
(すいじゅんてん)
水準点:
水準測量により標高の求められた点で、一等および二等水準測量で求められた点は、それぞれ一等および二等水準点といい、花崗(かこう)岩製の水準標石が埋設されています。
二等水準点や各地方自治体などが設置した水準点などでは金属標が埋設されていることもあります。bench-mark。
日本水準原点標庫: 日本水準原点を保護するための建物、1891(明治24)年5月に佐立七次郎の設計による近代風建築で、佐立設計の中では現存する最古の建物。
石造・平屋建  建築面積14.93u 軒高3.75m 最高高4.3m トスカーナ式オーダー(配列形式)の建物現在、東京都指定有形文化財(建造物)に指定されています。
(さたち しちじろう)
佐立 七次郎:

(1856-1922)
讃岐(香川県)出身。工部大学校造家学科1879(明治12)年卒の第1期生、 工部省営繕局技手、造家学会発起人、通信省技師等々。
ジョサイア・コンドル:
(1852-1920)
1877(明治10)年に日本政府に招かれ、工部大学校(現・東京大学)造家学科の教授として来日した英国の若き建築家コンドルとその教えを受けた四人の弟子たち辰野金吾、曾禰(そね)達蔵、片山東熊(とうくま)、佐立七次郎はわが国最初の建築家としてそれぞれ活躍をしていきます。
日本水準原点
100周年記念切手:
1991.05.30発行の額面62円の切手。  残念ながらわたしは収集していません。
図案は百聞一見にしかずといいますが・・・日本水準原点標庫をバックにして三脚に固定された水準器(レベル)を配したものです。
1級基準点: 国土調査法の地籍調査及び同法に定める国土調査の成果として認証された測量調査によって設置した標識等のことだそうで、「標識等」とは、1級基準点、地籍図根三角点、地籍図根多角点及びその他測量の基準となる杭をいうそうです。
(こくどちょうさほう)
国土調査法:
昭和26(1951)年6月1日法律第180号
国土の開発及び保全並びにその利用の高度化に資するとともに、あわせて地籍の明確化を図るため、国土の実態を科学的且つ総合的に調査することを目的として制定された法律。
構成:第一章 目的及び定義(第1条・第2条)、第二章 計画及び実施(第3条―第10条)、第三章 国土審議会等の調査審議等(第11条―第16条)、第四章 成果の取扱(第17条―第21条)、第五章 雑則(第22条―第34条の2)、第六章 罰則(第35条―第38条)、附則 。
  野外彫刻関連  「野外彫刻など」編
* わたしは、野外彫刻という言葉を使って頁を編集していますが、野外にある彫刻作品ばかりを取り上げていませんので、厳密に云えば、標題が間違っているのでしょうね。
パブリックアートというのが(わたしが編集している頁に)より近いように思いますが、英語ですので日本語で「公共展示美術作品」編とした方がいいのかもしれませんが、そこのところは「野外彫刻など」となどを付ける事でお許し願っておきます。
(やがい)
野外:
(2)建物の外。屋外。(1)野原。郊外。
(おくがい)
屋外:
家屋の外。戸外。
ちょうこく sculpture
彫刻
石や木などをほりきざんだり、または粘土や蝋(ろう)などを肉付けしたりしてものの像を立体的にかたちづくる芸術。彫像と塑像。彫塑。
(そぞう)
塑像:
粘土・油土・蝋(ろう)などを肉付けして造った像。銅像などの原型としても造られる。
(ちょうそ)
彫塑:
1)彫刻。狭義には、塑像をいう。
2)塑像を作ること。
public art
パブリックアート
(美術館やギャラリー以外の)広場など公共の空間を使った美術作品。
objet
オブジェ(仏語)
ダダイスム・シュールレアリスム以降の現代芸術の手法の一。
日用の既成品・自然物などを、本来のその機能やあるべき場所から分離し、そのまま独立した作品として提示して、日常的意味とは異なる象徴的・幻想的な意味を与えようとするもの。
(dadasme)
ダダイスム:
第一次大戦中から戦後にかけて国際的に展開された芸術革命運動。理性を優位におく既成のあらゆる価値観を否定し、芸術の自由な発想と表現を目指した。反合理主義・反道徳の態度を特色とする。ダダイズム。ダダ。
シュールレアリスム: 理性の支配をしりぞけ、夢や幻想など非合理な潜在意識の世界を表現することによって、人間の全的解放をめざす20世紀の芸術運動。ダダイスムを継承しつつ、フロイトの精神分析の影響下に1924年発刊されたブルトンの「シュールレアリスム宣言」に始まる。画家のダリ・キリコ・エルンスト、詩人のアラゴン・エリュアール・滝口修造らが有名。超現実主義。
(仏:sur)
シュール:
<「超」の意>[名]「シュールレアリスム」の略。「シュールの詩人」
[形動]表現や発想が非日常的・超現実的であるさま。「シュールな建築物」
monument
モニュメント
ある事件・人物などの記念として建てられる建造物。記念碑・記念像など
tangram
タングラム
中国のパズル遊びの1つ。知恵の板。正方形の板を切って3角形5、正方形1、長斜方形1の7個に分け、さまざまな形に並べ換えて遊ぶ。
文展 1907(明治40)年に創設された文部省美術展覧会の略
帝展 帝国美術院の開催した展覧会。帝国美術院展覧会の略
1917(大正6)年より帝展となり1919(大正8)年以来毎年開催。
新文展 1937(昭和12)年から再び文部省が主催し、帝国芸術院が創設されるとともに新文展と改称。
日展 美術団体の一つ。また、その団体が開催する展覧会。
1946(昭和21)年には日展(正式には日本美術展覧会)となったが、1958(昭和33)年官営から民営となり社団法人「日展」となりました。
めいじびじゅつかい
明治美術会
明治期の日本最初の洋風美術団体。
1889(明治22)年浅井忠・小山正太郎・長沼守敬らが創立。洋画の啓蒙・普及に貢献したが、のち、黒田清輝らが白馬会を興したため旧派と称された。1901(明治34)年解散、若手を中心に翌(明治35)年太平洋画会が結成されました。
たいへいようがかい
太平洋画会
美術団体。
1901(明治34)年解散した明治美術会の系統を引き、その門下の満谷国四郎・石川寅治・大下藤次郎らが結成しました。白馬会とともに明治後期の洋画壇の中心勢力をなした。1955(昭和30)年染織部創設、1956(昭和31)年彫刻部充実させ、1972(昭和47)年版画部部会として独立。
1957(昭和32)年太平洋美術会と改称。1975(昭和50)年12月社団法人し社団法人太平洋美術会となる。
はくばかい
白馬会
洋画美術団体。
1896(明治29)年黒田清輝など自由主義を主張する人々が明治美術会を脱退して組織。フランス印象派の手法を伝え、和田英作・藤島武二などを育てた。1911(明治44)年解散。
にかかい
二科会
美術団体。
1914(大正3)年設立。文展洋画部に第二部設置を求めて入れられなかった石井柏亭・有島生馬らが結成。毎秋、公募展を開催。1951(昭和26)年「商業美術」部門(現デザイン部門)新設。1953(昭和28)年「写真」部門が新設。1979(昭和54)年法人化し、社団法人二科会となる。
しゅんようかい
春陽会
美術団体。
1922(大正11)年小杉放庵・梅原竜三郎・岸田劉生・中川一政らがに結成。油絵・版画のほか舞台美術も含む。毎年春に公募展を開く。
きんれいしゃ
金鈴社
1916(大正5)年結城素明(1875-1957)、鏑木清方(1878-1972) 、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘に田口掬汀を加え自由な研究と個性の表現を目的とし結成(小規模な研究団体だったが、文展に対する一種の牽制運動ともいえる)。T6三越本店にて第1回展。 1922(大正11)年第7回展後、解散。
かいじゅしゃ
槐樹社
1924(大正13)年帝展で活躍していた斉藤与里(1885-1959)、田辺至(1886-1968)、吉村芳松(1887-1965)、油谷達、金井 文彦ら若手作家による創立。その後10年で解散しました。
昭和33(1958)年堀田清治が同志を募り「新槐樹社」を創立した。2008(平成20)年2月国立新美術館で全国各支部会員作品及び公募一般作品を展示。1958(昭和33)年に発足した新槐樹社があります。
とうこうかい
東光会
1932(昭和7)年熊岡美彦・斎藤与里・高間惣七・岡見富雄・堀田清治、橋本八百二の6名により洋画の任意団体として設立。
1933(昭和8)年2月東京府美術館で第1回東光展を開催以来(戦争で中止の昭和20年・21年を除いて)、1979(昭和54)年法人化し、社団法人東光会となる。
とうきょう
 びじゅつがっこう

東京美術学校
1887(明治20)年創立された官立美術学校。二代目校長に岡倉天心がいる。
1949(昭和24)年東京音楽学校と合併、東京芸術大学(美術学部)となる。
10.06.15追記     06.10.16裕・記編集



(「無知からはじめた豆知識集」編) (広島ぶらり散歩へ)





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送