(福岡市営渡船)博多・志賀島航路

  福岡市博多区築港本町13-6の博多港乗り場から東区志賀島への渡船を取り上げました。
志賀島航路は、
明治末期に志賀島漁業組合が博多向けの鮮魚輸送をはじめ、志賀島から鮮魚行商人が海路福岡市に往来するようになったのが起源だそうで、
大正3(1914)年頃から石田汽船と志賀島村西戸崎の人が各一隻で、志賀島〜博多間の航路を開き、のちに地元漁協組合が(傭船で)加わり志賀島〜博多の旅客輸送をしたそうです。 
昭和6(1931)年志賀島橋の開通に伴い観光客も増加、一方福岡市への鮮魚の行商人も増えていきました、このように複数の渡船業者が競い合い、船数を増やすなど過当競争になってきたので、村が仲介に入り、
昭和8(1933)年に志賀島村営による渡船事業が開始されたそうです。 
戦後、逐次新船が建造され4隻が就航するようになり、博多〜西戸崎〜志賀島を運航していました。(わたしが子供のころから乗っていたのが町営志賀島汽船でした:わたしが乗り保存していた切符を掲載しています)
昭和46(1971)年4月志賀町が福岡市に編入し、町営から福岡市営へ引き継がれました(このころの切符も保存していましたので)平成8(1996)年2月より双胴の新鋭船「きんいん」が投入されたようで、わたしは2002年に久しぶりに乗ろうとしたときに驚いたのです(このときの切符は保存していませんので、降りるときに渡したのかもしれません)。
(平成19年4月現在)福岡市港湾局港湾振興部客船事務所の資料によると博多(博多港第一ターミナル)発、志賀島発ともほぼ毎時1便ずつ出ており、所要時間33分、片道650円です。
わたしが乗った平成14(2002)年船が双胴の新鋭船「きんいん」でありましたが(現在1号〜3号まである)何号だったか記憶になく、撮影画像でもわかりませんでした。また、現在33分という所要時間、以前の船では1時間くらいかかったようにわたしは思ったのですが、女房に聞いたら50分くらいだったように記憶していると云っていました。
08.06.04再編集    02.05.03裕・編集

02.04.29撮影

02.04.29撮影
福岡市東区志賀島411 志賀島渡船乗り場

02.04.29撮影
最新船になっていました

02.04.29撮影

02.04.29撮影
志賀島旅客待合所(モダンな待合になっていました)

02.04.29撮影
  1784(天明4)年、志賀島の農民が畑仕事をしていると、何やら光るものを発見しました。
これが、日本の歴史学上重大な発見となる国宝「金印」。印面には「漢の委の奴の国王」と刻まれています。また鈕にはヘビがとぐろを巻き、その頭には目が2つ刻まれ、体には魚子文でウロコがあらわされています。
 中国の古い書物である『後漢書』東夷伝に、「建武中元二(57)年、倭の奴国奉賀朝貢す。使人自ら大夫と称す、倭国の極南界也、光武賜うに印綬をもってす」と記されているのがまさにこの金印にあたるのです。
つまり、紀元1世紀にこの博多の地に「奴」という国があり、その奴国はすでに中国大陸との交流を行っていたのです。博多湾は古代から、海外との交流の窓口として活躍していたことがわかります。
この金印は現在、福岡市早良区百道浜の福岡市博物館に展示されています。
待合所前の「漢倭奴国王」印説明板
志賀島航路船舶の移り変わり
第1志賀島丸 昭和35年 ------→なのくに(昭和53年6月)------------→きんいん1(軽量合金双胴船)(平成8年4月)
第7志賀島丸 昭和29年 ---→うらしま(昭和51年7月)------------→(平成7年11月廃船)
第8志賀島丸 昭和31年 ---------→しかしま(昭和54年7月)---------→きんいん2(軽量合金双胴船)(平成8年4月)
おとひめ 昭和44年 ----------------------------→おとひめ(新)(昭和63年6月)------→(平成18年4月廃船)
※志賀島航路船舶の移り変わりの資料は2008年6月5日福岡市港湾局港湾振興部客船事務所より教えていただきました



福岡ぶらり散歩



何処に行ってもぶらり散歩一覧
(志賀島)渡船乗り場から金印公園へ
(市営渡船)博多・志賀島航路
渡船乗場〜金印公園へ道すがら
(番外)志賀島航路・乗船切符





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送