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福岡市東区大字勝馬の“しかのしま資料館”でみた「金印のレプリカ」です。
※レプリカというものの金印を見たので金印について少しばかり考査したことをこの頁で取り上げました。 |
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昔、今の福岡地方に「奴の国」(なのくに)とよばれる原始小国家があり、奴の国の使者が当時後漢の国に行って時の皇帝光武帝から「印綬:漢委奴國王印(かんのわのなのこくおうのいん)」をもらったということです。このことは後漢の史書「後漢書・東夷伝」の中に『建武中元二(西暦57)年倭国奉貢朝使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬・・・』この印綬が天明4(1784)年2月23日筑前国那珂郡志賀島の西海岸・叶の崎の水田から偶然発掘されました。これが国宝「金印」なのです。 |
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金印の発掘から国宝へ |
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天明4(1784)年発見したのは志賀農民(近年の調査で「秀治」と「喜平」の2人でほぼ確実という)でした、百姓・甚兵衛はその田の持ち主で当時の志賀島村庄屋武蔵が「志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚」とともに那珂郡奉行に届け出たのです。奉行の津田源次郎を通して黒田藩漢学者・亀井南冥(1743-1814)に鑑定が依頼され、後漢書に金印を授けたという記事があることからその印であろうと鑑定しました。亀井南冥は家宝にしたいと考え郡役所に十五両(後に百両といった)で買いとりたいと申し出たが許されず、(驚いた)郡役所は甚兵衛口上書を添えて(黒田藩の)藩庁に届け出ました。藩庁は亀井南冥ほか修猷館教授ら数名に金印の考証させるとともに甚兵衛に白銀五枚を与え以来黒田家の家宝として庫裡深く保存されてきました。
明治になって金印は国宝に指定され、昭和29(1954)年国宝重文等の指定替えで改めて第一級の国宝となり国立博物館(現・東京国立博物館)に保管されていましたが、昭和54(1979)年黒田家から福岡市に寄贈され、福岡市博物館の開館にともない福岡市博物館で保管展示されています。 |
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金印の外観・大きさ |
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印は正方形の台の上に蛇がとぐろを巻いたような「つまみ」がついていてその下のところに穴があいて「ひも」を通すようになっています。台(印体)は一辺≒23mmの正方形で厚さ≒9mm、総高さ≒22mm、重さ≒109gで金位は22金くらいだそうです。 |
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印文 |
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3行にわけて篆書で5文字(白文で)『漢委奴國王』と刻されている。「委」は「倭」即ち倭国と解され「漢(かん)の倭(委:わ)の奴(な)の国王」と訓じるのが通説で、倭国は日本の国の古号で、奴は福岡地方の古地名から『漢の国の属国である日本の福岡地方の国王』と解釈されています。 |
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なぜ志賀島から |
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(1) |
「隠匿説」倭国大乱のあおりで、金印は隠されたと言う説 |
(2) |
「遺棄説」同様に、何らかの原因で棄てられたとする説 |
(3) |
「墳墓説」奴国王の墳墓ではないかとの説 |
(4) |
「王宮説」奴国王の王宮が近くにあったのではないかとする説 |
(5) |
「金印偽作説」金印そのものが、後世の偽物であるとする説 |
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(3) (4)については、今のところ周辺で何ら遺構らしきものが発見されていないから可能性は低い。
(5)は可能性が残るものの、新たな文献でも発見されない限り論評は進まない。
やはり一般に言われるように、可能性が一番高いのは (1) か (2)だろうと思われる。後に続く「倭国大乱」を考えると
(1)の可能性が高い。 |
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ここでの資料は東京国立博物館の資料を参考にしました |
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日下部国男氏の説(志賀公民館主事、郷土史研究家) |
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志賀島では弥生時代中期の土器片など生活遺物が多数発見されている中で昭和32(1957)年「細形銅剣の鋳型」の発見されたことが、ここで考査する『なぜ志賀島から』に重要なヒントを与えてくれたのです。
「細形銅剣の鋳型」は、細形銅剣を鋳造する技術と能力を有する人々(部族)が、その時代に志賀島を根拠地として(盛んに)大陸と交通し大陸文化を輸入していたことを証明するものではないのか、その人々(部族)の次の代に金印が渡来するのです、つまり細形銅剣を鋳造していた人たちの孫に当たる人(部族長)が金印をもらって帰った、そしてその人(部族長)は金印を家宝として肌身離さず持っていた、そしてその人の死後(あるいはその何代か後の長かも知れませんが)遺体とともに埋葬されたのではないかと考えるのです、金印は光武帝からもらってきた人が自分で持っていて、奴国の王には渡さなかった・・・ |
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※資料はしかのしま資料館販売の「しかのしまのごあんない」に掲載の記事を参考にしました |
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以前訪れた時はこの金印のレプリカが展示されていることを知りませんでしたが、義兄の孫たち(志賀島小学校生)に教えてもらい一緒に見学したのです。福岡で育ったわたしですが、いままでレプリカでも金印は見たことがありませんでしたので、興味深く見入ってしまいました。ここ志賀島資料館で購入した「しかのしまのごあんない」という小冊子をもとにこの頁を構成編集しました。
なぜ志賀島で金印が発見されたかの説は子どものころからの疑問でしたので、いろいろと聞いてきましたが東京国立博物館の資料(可能性が高い結論も)も参考に編集しました。 |
資料はしかのしま資料館販売していた資料を購入した資料を主に参考にしました |
08.06.05裕・記編集 |
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