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福岡市東区志賀島に建立されている「蒙古塚」です。
※2005年3月20日の福岡西方沖地震地震で旧蒙古塚が被害に遭い新しく整備されています。 |
文永11(1274)年10月、博多湾に現れた蒙古軍(元軍)は、今津から百道(ももち)原にかけて上陸し、激戦を展開して日没とともに船に引揚げました。しかし、夜になって台風が吹き荒れ、多数の船が沈没、大破したと云われています。この供養塔はその時、この付近で難破し戦死した蒙古兵士の為、昭和のはじめ日蓮僧・高鍋日統(博多出身:1879-1948)の提唱で建設されたもので、勝立寺で祭祀しています。 東区観光案内(板に記述文章) |
元寇(文永の役)時、蒙古・高麗軍≒23,000人(いろいろな説があり3万とする資料もあります)が博多湾に侵入し、激戦を展開夜になって引揚げるとき志賀島で座礁し捕虜になった者☆のうち120人ほどが蒙古塚(首切塚)で斬首されたと伝えられています。蒙古塚付近は昭和はじめに整備され、怨親平等※の精神から日中友好として昭和3(1928)年に蒙古軍供養塔が序幕されました。その供養塔は、平成17(2005)年3月20日福岡西方沖地震で倒壊、平成19(2007)年9月8日に新らしい供養塔が再興されたそうです。 |
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☆福岡市教育委員会の資料には「逃げ遅れた蒙古軍120名が志賀島でつかまり、日本軍に首を切られました。」とあります。 |
※怨親平等(おんしんびょうどう)は仏教の思想で、敵も味方も平等であることを意味します。 |
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福岡で育ったわたしですので、蒙古塚と云われていることも知っていましたが、「首切り塚」という生々しい呼称も知っていましたので、設置の説明板は戦争の惨たらしさを避ける表現かなと思いました。
志賀島生まれの義妹に連れて来てもらいましたが、福岡西方沖地震で被害を受けたことは知っていても、地震以後にこの蒙古塚に来たのははじめてで、新しく整備されていることに驚いていました。 |
08.11.05裕・記編集 |