備後護国神社

  福山市丸之内の福山城公園に鎮座している「備後護国神社」です。
備後護国神社 御由緒 御神徳 (説明板による)
備後護国神社は、昭和32(1957)年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護国神社と合併して、社名を備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。
阿部神社の建立は文化10(1813)年に時の福山藩主(5代・阿部正精)が歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。
御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を始め歴代藩主をお祀りしてあります。御神徳は、御祭神の御功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。
歴代の中で特に(7代)阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永6(1853)年ペリー来航に当り和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。
(備後)護国神社は、1868(明治元)年福山藩主10代・阿部正桓が、石見益田の役、函館戦争の戦死者の霊を祀るために、旧深津郡吉津村に招魂社を創立したのがはじまりです。1893(明治26)年福山公園(現・福山城)の本丸人質櫓跡に遷座、1901(明治34)年官祭福山招魂社に改称。1939(昭和14)年内務大臣の指定を受け福山護國神社と改称。1940(昭和15)年=紀元2600年を機に、芦田川河畔に新たに建立されることになり、第二次世界大戦中も工事が続けられていましたが、1945(昭和20)年8月8日福山大空襲によって焼失。敗戦後一時期「備後神社」※を名乗り、また福山城本丸の元・福山招魂社に合祀されていました。1954(昭和29)年社殿を阿部神社の本殿を改装したうえで合祀することが決定、1956(昭和31)年復興。(それ以後は上記の設置の説明板にあります)。
別表神社。
※廣島護國神社も敗戦後の占領下では「広島神社」と称していました。こちらも占領状態で護国の文字をとっていたようです。
福山城公園内の野外彫刻などをみていた時に、ずらっと並んだ石碑に目がいきました。近づいてみると、各部隊、各地区での戦没者慰霊碑等でした(碑ごとに別頁で編集しますが)。備後護国神社があることは地図をみて知っていましたので、訪ね、参拝しようと思っていましたが、由来などの予習はしていませんでしたので、みるままに撮影しました。由緒板が設置されていましたが阿部神社中心の説明でしたので長くなりましたが招魂社からの由来も記しました。
09.06.25裕・編集

09.06.06撮影
広島県福山市丸之内1-9 福山城公園

09.06.06撮影

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拝殿から本殿をみる

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影
備後護国神社境内の石碑群

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影
備後護国神社境内の石碑 東部ニューギニア方面
戦没者慰霊碑
義勇奉公・碑

(全抑協・広島県福山支部)
シベリヤ抑留者慰霊碑


09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影
萬寳山之碑 第六十五旅団戦歿者
慰霊碑
(広島県福山地区)
ノモンハン戦没者慰霊碑
メレヨン島戦没者
慰霊碑
(備後地区)
拓魂碑

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影

09.06.06撮影
(広島県)
マリアナ慰霊碑
陸軍少年飛行兵戰没者
慰霊之碑
硫黄島戦没将兵
慰霊碑
レイテ・ミンダナオ島
戦没者慰霊碑
(歩兵第232聯隊)
慰霊・石燈籠



広島の神社寺院」編



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(広島県福山地区)ノモンハン戦没者慰霊碑
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(備後地区)拓魂碑
(広島県)マリアナ慰霊碑
陸軍少年飛行兵戰没者慰霊之碑
硫黄島戦没将兵慰霊碑
レイテ・ミンダナオ島戦没者慰霊碑
(歩兵第232聯隊)慰霊・石燈籠


「備後・福山」編





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