萬寳山之碑

  福山市丸之内の福山城公園に建立されている「萬寳山之碑」です。
萬寳山(万宝山)は日露の役、福山歩兵第四十一聯隊が激戦遂に全員散華の地 、此碑は其武勲を伝えるもの。
はじめは営庭にありしが其地に広島大学が設立され荒廃偲びず、市会議員門田武雄氏義挙により備後護国神社境内に移さる。
      昭和37(1962)年5月吉日 福山市長 徳永豊(1895‐1976)
日露戦役の資料を少しみましたが、歩兵第41連隊が出征した事はわかりましたがどこに所属したかも含めて確かなことは(わたしには)わかりませんでした。
奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905(明治38)年3月1日から3月10日にかけて行われた日露戦争最後の会戦。奉天は現在の中国遼寧省・瀋陽(シェンヤン:しんよう)。双軍あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に渡って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦と云われ、参加兵力:大日本帝国陸軍25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官:日本側大山巌(1842-1916)、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。
3月5日万宝山攻撃中の第10師団(日露戦争時第四軍隷下)が敵・露軍の逆襲を受けて大損害を出しています。
廣島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編という事からするとこの碑の建立が福山市という事から外れるかも知れませんが関連ということで、見ていただければ幸いです。
2002年福山バラ祭りを見に来た時、緑町公園の地が戦前は陸軍(歩兵第41連隊)の駐屯地だったこと、その地が1951(昭和26)年広島大学教育学部附属校となり、広島大学附属福山中・高等学校が1973(昭和48)年に春日町に移転するまでその地にあった事を知ったのです。この碑の碑文でその地でこの碑が荒廃していたことを知りましたが、建立当時は戦争賛美の碑であっても、そういう歴史を経て今の平和な日本になっていることを勉強出来る資料なのですから大切に次の世代に受け継がなくてはならないと(わたしは)思うのです。
09.07.31裕・編集

09.06.06.撮影
広島県福山市丸之内1-9   福山城公園

09.06.06.撮影

09.06.06.撮影
シベリヤ抑留者慰霊碑 と 萬寳山之碑 と 第六十五旅団戦没者慰霊碑 と ノモンハン戦没者慰霊碑



軍都・廣島関連施設戦跡など」編



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