硫黄島戦没将兵慰霊碑

  福山市丸之内の福山城公園に建立されている「硫黄島戦没将兵慰霊碑」です。
硫黄島は東京南方千ニ百粁の地点にあり 南北八粁東西四粁の火山島である
昭和二十年二月十六日米艦船六百隻又海兵三ヶ師団超重爆撃戦隊三ヶ連隊艦載機千六百機戦車六百輌を以ってする猛攻撃に対し我が軍ニ万一千は打つて一丸となり勇奮敢斗鬼神の如き死斗を以って米軍を殺傷すること二万五千の損害を與へたり 
而し戦斗は地獄の様相で緑の島の総ての物は余すことなく爆砕され瓦礫の原には身を隠す蔭もなく飢を満す草木もなく渇をいやす水もなく優勢なる米軍と昼夜の別なき戦いに矢尽き刀折れ遂に三月十七日玉砕の運命を辿りたり 
国家の危急に身を捧げ傷つき仆れても看護の手もなく暗い熱い壕の中で求むるものの何ものも与へられずして死に至った数多くの将兵の遺骨今も尚地下壕の中に惨嘆たる姿で内地からの迎へを待ち焦がれている有様は誠に慟哭の極みなり 余りにも変り果てた地形は完全収骨はとても不可能であり仍つてここに報われなかった硫黄島周辺を含めた戦没将兵の武勲を賛へ後世にその戦史を伝へて永遠の供養にと硫黄島戦没遺族と生還者相計りここに慰霊碑を建立せり
昭和四十八(1973)年九月十七日  河野義治書
硫黄島の戦い{1945(昭和20)年2月16日- 3月26日}は、太平洋戦争末期小笠原諸島の硫黄島で日本軍と米軍との戦闘です。1945(昭和20)年2月19日米海兵隊上陸開始。3月17日・米軍島を制圧し、日本軍部隊多数玉砕。3月26日栗林忠道(陸軍大将:1891‐1945)以下300名余りが最後の攻撃をするが玉砕、これが組織的最後の戦闘。
後援・救護部隊を持たなかった日本軍は、2万933名の守備兵力のうち2万129名が戦死。損傷率は96%にのぼり、一方米軍は、戦死6,821名、戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を受けたそうです。
廣島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編という事からするとこの碑の建立が福山市という事から外れるかも知れませんが関連ということで、見ていただければ幸いです。
この慰霊碑の建立が1973(昭和48)年だったからでしょう、田中角栄内閣総理大臣が碑銘を揮毫しています。
(たなかかくえい)
田中角栄:
(1918-1993)
政治家。新潟県生まれ。中央工学校土木科卒業。一級建築士。
1972(昭和47)年7月首相に就任。「日本列島改造論」が土地投機と物価上昇を招き、金脈問題が摘発されて1974(昭和49)年12月退陣。1976(昭和51)年ロッキード事件で逮捕起訴され、1983(昭和58)年一審で懲役四年追徴金五億円の実刑判決をうけ、上告中死去。
09.08.07裕・編集

09.06.06.撮影
広島県福山市丸之内1-9  (備後護国神社) 福山城公園

09.06.06.撮影
                             内閣総理大臣 田中角榮

09.06.06.撮影

09.06.06.撮影
(備後地区)陸軍少年飛行兵戰没者慰霊之碑 と 硫黄島戦没将兵慰霊碑 と レイテ・ミンダナオ島戦没者慰霊碑



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