レイテ・ミンダナオ島戦没者慰霊碑

  福山市丸之内の福山城公園に建立されている「レイテ・ミンダナオ島戦没者慰霊碑」です。
顧みるに わが歩兵四十一聯隊は 過ぐる大東亜戦に於て各地を転戦 昭和十八年十月 東部ニュ−ギニアより平壌に復員の後 新に第三十師団の第一線部隊として編成され 十九年五月聯隊長炭谷鷹義大佐以下三千ニ十六名は比島に出動ミンダナオ島の防衛に任ず 同年十月 米軍レイテ島に上陸するや 第一大隊及び第ニ大隊を基幹とする聯隊主力は急據出撃 壮絶な戦闘を展開するも 敵の厖大なる物量にわが善戦もついに力及ばず ニ十年七月 レイテ島カンギポットに於て聯隊長以下全員軍旗と共に祖国に殉じ また 第三大隊はミンダナオ島ワロエ付近にて優勢なろ米軍と指呼の間に対峙 約半数の兵員を失ないてなを激戦中八月十五日 終戦を迎え 聯隊は明治ニ十九年十一月創設以来五十年に亘る波乱と激戦の歴史を閉ず
この間 瘴癘蔓延の密林に拠り 悪戦苦闘の末 祖国の勝利と平和を念じ 故郷の骨肉の上に万斛の思いを残しつつ比島の山野に散華せる二千四百有余名の戦友を想うとき 万感胸に迫り断腸の念に耐えずここに我等生還者及び有志相集い その昔 春秋に富む若き身を国難に挺して南海の異境に闘い 一命を祖国の尊き礎として捧げし戦友の御霊を招来し とこしえに鎮まりまさんことを祈念せんがため 碑を聯隊発祥の地 福山に建立す
         
昭和五十八(1983)年四月 歩兵第四十一年聯隊比島戦友会
レイテ島はフィリピン中部、ヴィサヤ諸島に位置する島です。レイテ沖海戦では、1944(昭和19)年10月23日-25日にかけて日本海軍と米海軍との間で交わされた海戦の総称で、直接的にはシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦の4つの海戦のことで、米軍進攻阻止が目的で、日本海軍艦隊戦力はこの海戦で事実上壊滅し、神風特別攻撃隊の攻撃をはじめて行ったそうです。
ミンダナオ島の戦いは、1945(昭和20)年3月10日から終戦までフィリピン諸島ミンダナオ島で行われた、日本軍と米軍及びフィリピン人ゲリラの間の戦いで、米軍側からはフィリピン解放作戦の一環で、サンボアンガ上陸「ヴィクター4号」と、残るダバオなどの制圧作戦「ヴィクター5号」からなっていました。既にレイテ島の戦いなどで消耗していた日本軍はこの戦いの結果、南部フィリピンの主要部の支配権を失いました。
廣島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編という事からするとこの碑の建立が福山市という事から外れるかも知れませんが関連ということで、見ていただければ幸いです。
太平洋戦争末期、歩兵第41聯隊に所属されていた人たちが悪戦苦闘されたことを碑文からもわかってきます。多くの戦友を喪いながら生存し祖国に帰ってこられた戦友会の人たちが1983(昭和58)年建立した碑・・・過去へ時間を巻き戻すことはできませんが、次世代へ平和な今の日本を続ける手立てを経験からお持ちだとわたしは思うのです。その経験を次世代へ伝えられることを願わずにはおられません。
09.08.08裕・編集

09.06.06撮影
広島県福山市丸之内1-9  (備後護国神社) 福山城公園

09.06.06撮影

09.06.06撮影
(備後地区)陸軍少年飛行兵戰没者慰霊之碑 と 硫黄島戦没将兵慰霊碑 と レイテ・ミンダナオ島戦没者慰霊碑



軍都・廣島関連施設戦跡など」編



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