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福山市霞町の(福山)中央公園に建立されている「追憶:福山市戦災死没者慰霊の像」です。
※像の作者は今城国忠で、像としては「母子像」と題が付いています。 |
第ニ次世界大戦の終えんを告げんとする 昭和ニ十年八月八日夜 米軍機の焼夷弾投下により 市街地は一瞬にして火の海と化した
今ふるさとよみがえり 生成発展を続けるとき ここに尊い犠牲となられし御霊の冥福を祈り 平和を祈念するため慰霊の像を建立し永く後世に伝える |
昭和四十七(1972)年三月建之 福山市長 立石定夫 |
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潮騒の永遠に高く 湧き立ち昇る雲なみの下 今ふるさと甦り 生成発展をつづけるとき _当時を回顧し 御霊の冥福を祈り 平和を祈念し われら相寄り 慰霊の像を建立し 後の世に留める |
福山市長 立石定夫(1928-1995) |
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母子像の由来 |
1945(昭和20)年8月8日午後10時25分からはじまったB29爆撃機91機による空爆(約1時間)で福山市は 市街地の約8割を焼失し、死者354人重傷者122人、軽傷者742人(福山戦災誌)。
福山市内在住の荒木計三さんは翌朝(8月9日)市内住吉町の水田で母子3人がよりそって死んでいるのを見つけました。
『母親は四つん這いになり胸にすがりついた赤ちゃんを片手にしっかり抱き寄せ、まるで乳を飲ませているかのような格好でした。そして母親の後ろ足を6歳くらいの子が両手でしっかりつかまえてひざまずいていました。着物などは焼けてしまって、遺体はまるでろう人形のようでした。水田の中に入っていれば水があるので助かると思ったのでしょうが 稲は焼け水は枯れて母子は蒸し焼きになてしまったようです。』この話しをもとにこのような惨禍が二度と繰り返さないようこの像が制作されました。 |
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1972(昭和47)年(3月) 今城国忠:作 |
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(福山市)中央公園にこの戦災死没者慰霊の碑「追憶」像が、1972(昭和47)年建立されています。
隣に1989(平成元)年建立の原爆死没者慰霊碑が建立されています。2008年に新しく整備された中央公園ですので、その時碑の周りも再整備されたようでした。 |
09.11.11裕・編集 |