せいしかん あと・ひ
誠之館址・碑

  福山市霞町の(福山)中央公園に建立されている「誠之館址・碑」です。
福山藩藩校「誠之館」は、安政2(1855)年から明治5(1872)年までこの地にあり、幕末激動期の人材養成に大きな役割を果たしました。
幕府の老中筆頭として国務を総覧していた福山藩主阿部正弘は、危機的な内外情勢に対処するため、「教育は国を治むる大本」という理念に基づき、当時の藩校「弘道館」の抜本的改革を打ち出します。
まず、関藤藤陰を登用して藩校教育の基本理念を上申させ、嘉永5(1852)年には正弘自ら「藩中文武奨励論示」を出して新学館建設の確固たる意思を表明しました。翌嘉永6年6月のペリ-来航はそれに拍車をかけ、秋には江戸の新学館建設が始まります。館名は中国の儒書「中庸」の「読者天之道也。誠之者人之道也」に由来し、嘉永7(1854)年1月4日、「誠之館」と決定しました。扁額は水戸藩主徳川斉昭の揮毫を得て二面作られ、江戸と福山の両誠之館の玄関に掲げられました。江戸誠之館から1年遅れて、嘉永7年9月4日には福山誠之館の建設が始まり、同(安政元年と改元)年12月28日に完工、翌安政2(1855)年1月16日開校式が挙行されました。その敷地は約17,000u、附属錬兵場60,000uに及び、学堂・講武館(先勝堂)・書籍蔵・各武術稽古場・倉庫などの建物が連なっていました。
誠之館教育の特色の一つは、開設された講座が、漢学・国学・洋学・兵学・医学・算法・習礼をはじめとして武芸全般に及び、文武習得に力を入れた点にあります。また、8歳から17歳までの藩士の子弟全員を就学させ、卒業時の文武考試に結果を役職・給与に反映させるという新しい仕進法の導入を図り、世襲制度下での一大改革を行いました。
明治5(1872)年の「学制」公布によって、誠之館は、17年9か月にわたる藩校としての使命を終え、同年10月19日に閉校しました。その後県立中学校など幾多の変遷を経て、校名は現在の広島県立福山誠之館高等学校に受け継がれ、藩校当時の玄関は同校に移設保存されています。
(福山市)中央公園内でみた石碑でした。説明板を読むとこの地が誠之館があったことがわかりました。
1932(昭和7)年福山市三吉町に移転しているそうですので、この址碑の建立が望まれ、同窓会によって1938(昭和13)年に建立されたのでしょう。なお、県立誠之館は1971(昭和44)年現在の福山市木之庄町に移転しています。
09.11.13裕・編集

09.10.12撮影
広島県福山市霞町1-10 (福山)中央公園

09.10.12撮影























09.10.12撮影
















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