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竹原市本町の地蔵堂境内に建立されている「鈴木重仍翁彰徳碑」です。
※碑自体は、昭和4(1929)年11月吉辰に浅野長勲侯爵題額で竹原製塩合名會社長■■が建立したようです。 |
鈴木重仍(すずきしげより:1604-1664)
芸(州)藩士。正保(1644-1648)ころ蔵奉行として竹原へ赴任し、新開をひらき、塩田を築き、竹原の発展の基礎をつくった。1664(寛文4)年65歳で没。1763(宝暦13)年100年忌を記念して長生寺に義墓を建て、その徳をしたった。 |
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説明板では「けんとく」とわざわざ振り仮名が付いていましたが、彰徳(しょうとく=人の善行を世間に広く知らせること)ですのでわたしは「しょうとく」としました。また、碑側面にこの碑の建立日が刻まれていました、竹原警察署の警察の歴史によると1906(明治39)年竹原製塩会社解散して竹原製塩合名会社が設立されたとなっています。しかし、碑に刻まれた社長の名前はわたしには読めませんでした。 |
鈴木重仍(1608-1664)は、幼名八十郎。通称四郎右衛門。
寛永年間(1624-1644)藩主・浅野光晟に召出され新知200石を受け、御馬廻り、のち浦辺御蔵奉行となりました。正保(1644-1648)頃御蔵奉行として安芸国賀茂郡竹原下市に在住、正保3(1646)年から翌(1647)年にかけての竹原下市沖大新開75町余の干拓工事を主導。さらに、賀茂郡代官として慶安3(1650)年から3年間に大新開の内に塩浜98軒を築造、その功により50石加俸されました。
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地蔵堂境内に建立されています。門の根際に説明板が設置されていなかったら何の記念碑かなで済ませていただろうなと思ったこの鈴木重仍翁彰徳碑でした。 |
09.09.12裕・編集 |