らいこれすが きゅうたく
頼惟清旧宅

  竹原市本町に建てられ残されている「頼惟清旧宅」です。
県史跡 頼惟清旧宅  昭和32(1957)年9月30日指定
頼山陽の祖父・又十郎は1707(宝永4)年頼兼屋弥右衛門善裕の長男として生まれ、諱を惟清といい、晩年には享翁と号した。
文運の盛んな竹原の町に紺屋を営み和歌をよく詠じたが、1783(天明3)年77歳で没した。その子春水(山陽の父)・杏坪(きょうへい)は、ともに学者として名高く広島藩の儒官となった。また二男の春風は竹原の家を継ぎ、医業をこととした。今日、竹原の旧宅は、頼家発祥の地として旧状を保っている。旧宅は重層屋根入母屋造本瓦葺の母屋と、南に接する単層屋根切妻造本瓦葺の離れ座敷からなっており、双方とも塗籠造(ぬりごめづくり)である。
母屋の道路側八畳の間が紺屋の店であったものと考えられます。
(こうや)
紺屋:
〔「こんや」の転〕
布地の染色を職業とする家や職人。もと藍染め屋をいったが、のちには広く染め物屋をいう。
(こうやのしろばかま)
紺屋の白袴:
〔紺屋が自分の袴は染めないで、白袴をはいている意で〕
専門としていることについて、それが自分の身に及ぶ場合には、かえって顧みないものであるというたとえ。≒髪結い髪結わず。≒医者の不養生。
     頼山陽と竹原との関係
1 1781(天明元)年2歳の山陽は、両親につれられて竹原に帰り、祖父の惟清より「忠孝」の守袋を与えられる。
2 1794(寛政6)年15歳、5月27日叔父・杏坪に伴われて竹原に帰り10月12日まで約半年間、竹原に滞在し、附近の景勝地をまわり、高崎の薬師寺に詣でる。
3 1797(寛政9)年18歳、3月12日叔父・杏坪に伴われ江戸遊学の途中、竹原に寄り、16日雨の為陸路忠海より尾道に向かう。
4 1805(文化2)年26歳、7月24日父・春水に伴われ、権次郎(従弟)お十(妹)と一緒に竹原を訪れ、約1ヶ月滞在し、その間薬師寺、大福寺に詣でる。
5 1814(文化11)年35歳、当時京都で塾を開いていた山陽は、初めての帰省の途中、竹原に立ち寄り、三日間滞在して8月21日広島へ帰る。又、広島から帰京の途中、10月13日春風館に立ち寄り海路尾道へ向かう。
6 1819(文政2)年40歳、1年にわたる九州の旅より広島に帰った山陽は、母(ばいし)を伴って帰京の途につき、途中竹原へ立ち寄り、伯父・春風に会い、2月26日夜船で尾道へ向う。
7 1824(文政7)年45歳、母(ばいし)が2月より上京していたので、10月24日母を広島へ送る途中、竹原へ立ち寄る、その時の詩(ここ旧宅の裏庭の詩碑)を詠んだ。
※資料は竹原市・観光文化室の資料を参考にしました。
以前来たとき、頼山陽詩碑が建立されていることに気がつかなかったので、裏庭の方に先に行ったのです、説明板を読んでいた女房に紺屋は染物屋のことだよねと同意を求められたのですが‘こんや’と読むのではと(わたしは)思ったのですが、辞書を引けば「こうや」が正しいようです。PC変換ではこんやでも紺屋を出してくれますが、そいうえば‘こうやのしろばかま’という諺があったなと思う不勉強さでした。
09.09.24裕・編集

09.06.30撮影
広島県竹原市本町3-12-21

09.06.30撮影
裏庭から母家をみる

09.06.30撮影

09.06.30撮影
店に当たる部屋から座敷方向をみる 離れ屋の座敷

09.06.30撮影
裏庭の方から(道路側)店の方を見ました



「建物」編



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 (頼惟清旧宅)頼山陽詩碑


「(安芸の小京都)竹原」編





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