四境の役:芸州(大竹)口の戦い・碑

  大竹市新町のJR大竹駅前広場に展示されている「四境の役:芸州(大竹)口の戦い・碑」です。
江戸時代末期、徳川幕府の威信に陰りが見え始めていた19世紀半ば、アメリカ使節ペリー(1794-1858)の来航によって幕府は鎖国を解き、開国へと踏み切った。こうした幕府の行動に異を唱え「尊王攘夷」の思想を掲げて“反幕”の筆頭となったのが長州藩でした。
1864(元治元)年幕府は朝廷から「長州征伐」の勅令を受け諸藩に長州への出兵を命じました。
長州征伐、幕長戦争、征長の役などとも呼ばれるこの戦いは、長州藩の謝罪降伏でいったん幕を閉じました。しかし、ほどなくして長州藩では高杉晋作(1839-1867)ら改革派が兵を挙げ幕府も再び長州征討を敢行。1865(慶応元)年尾張藩主・徳川茂徳(1831-1884)を征長先鋒総督、彦根藩主・井伊直憲(1848-1904)、高田藩主・榊原正敬を先鋒として、諸藩に出兵を要請しました。ところがこの第二次長州征討は、朝廷の勅命ではなかったこともあり、幕府軍は足並みが揃わず、幕府の頼みであった薩摩藩も薩長同盟によって倒幕側にとなってしまいました。
この戦争は、幕府軍が四方より攻めたから、長州側では四境戦争と呼ばれています。
幕府は長州を、芸州(大竹)口、大島口、石州口、小倉口の四方から取り囲み、再び降伏させる目論見でした。しかし、江戸時代の終焉を決定づける歴史的な戦いがここ大竹の地で幕を開けました。1866(慶応2)年6月13日霧深い夜のことでした。
芸州大竹口にそろった藩府の軍勢は、彦根藩、高田藩を中心とした約三万。小瀬川を挟んで対峙する岩国軍の實に五倍でした。14日の未明、彦根軍は使番・竹原七郎平と曽根佐十郎の二騎に小瀬川を渡らせましたが、岩国軍はその二騎を川の半ばにして狙撃。戦いの火蓋が切って落とされました。
数で圧倒的に不利と見られた岩国軍でしたが、遊軍との挟撃が功を奏して彦根軍を撃退。小瀬川は血の海となりました。これは、甲冑に陣羽織といった旧態依然の幕府軍に対して、長州軍が西洋式の砲銃戦を取り込んだことによる勝利であったとも云えます。
その後、幕府は勝海舟(1823-1899)を遣わしてなんとか芸州口の戦いを休戦、引分けとしたものの、そのほかの大島口、石州口、小倉口では完敗という有様。260年以上も続いた徳川の時代が崩壊する予兆でした。
翌1867(慶応3)年には「大政奉還」が行われ、世は明治へ、新しい時代の幕開けをわが国は迎えたのです。
(原文):九内俊彦  画・揮毫:長野晴璋  制作:大竹市暴力監視追放協議会
今(2011年)回は、長州側JR和木町駅から国境(くにざかい)の小瀬川に架かる大和橋を渡って芸州側大竹の街をぶらり散歩しましたので、和木町で「四境の役砲台跡・碑」等を、大竹側で「長州之役戦跡・碑」等を先にみていましたので、四境の役に関してわずかですが、予習が出来ていましたので、この「四境の役:芸州(大竹)口の戦い・碑」碑文でもう少し知ることが出来ました。
描かれた画は、コイのストーンアートと同じ長野晴璋でした。
 11.06.11裕・記編集

11.06.02撮影
広島県大竹市新町1-1-1 JR大竹駅前広場

11.06.02撮影

11.06.02撮影
勅印文        使番斥候 竹原七郎平、曽根佐十郎
敬称は略しました
勅印(ちょくいん) 天皇の印判のこと。内印(ないいん)。
勅免(ちょくめん) 1)勅命による免許。勅許。  2)勅命による赦免。
勅命(ちょくめい) (1)天皇の命令。勅諚(ちょくじょう)。みことのり。
2) 明治憲法下で、法律・勅令の形式によらず、天皇が国家機関に直接下した命令。
使番(つかいばん) 江戸幕府の職名。はじめは使役とよばれた。戦時中は伝令、指示、戦功の監察、敵方への使者などを任務とし、武功・器量ともにすぐれた者がえらばれた。
斥候(せっこう) 敵の状況や地形などを探ること。また、そのために部隊から派遣する少数の兵士。



「古墳遺跡遺構など」編



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JR大竹駅
澄川喜一作:和
長野晴璋画:コイのストーンアート
四境の役:芸州(大竹)口の戦い・碑


「大竹市」編





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