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大竹市元町の道路沿いに碑のためのそれなりの敷地に建立されている「中川保太郎先生之碑」です。 |
正面:柔道司箭流 中川保太郎先生之碑 講道館長 嘉納治五郎 書 |
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裏面:昭和三年二月 門人有志者建之 |
*昭和3年=1928年 |
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武は國民の精華にして國家の治も亦此に存す我大竹町は藝防の國境にありてl古来武道を以て顕し斯道卓絶の士相踵きて出づ就中明治中年に至り中川保太郎先生に於て大いに發揚を見る先生は當町中川多左ヱ門氏の長男にして万延元(1860)年2月15日生る資性温厚等實■■豪氣に富み、幼い時から武道を好み清水先生に柔道を学び、後に廣島市山中権八郎先生之門下となり、司箭流柔道を極め皆傳を許され爾来四方諸氏の請に應じ各所に道場を開き多年子弟を指導して門人数百人に達し、師の武士道鼓吹の爲に社會に奉仕せられたる効績や偉大なりと言つべし茲に門人相謀り有志の協賛を経て先生の事蹟を石に■し紀念として不朽に傳ふと云■
昭和3(1928)年2月 所 養彦 誌兼書 |
(ししど しせん)
宍戸司箭:
(?-?) |
戦国時代の剣術家。名は家俊。
安芸国甲立(こうたち)の五竜山城主宍戸元家の孫(子とも)という。天正元(1573)年ごろ京都の鞍馬山,愛宕(あたご)山で修業。司箭を称して、貫心流(司箭流)をひらいた。 |
(かのう じごろう)
嘉納治五郎:
(1860-1938) |
柔道家・教育者。兵庫の生まれ。柔術諸流を集大成して近代柔道を創始。講道館を設立。東京高等師範学校校長を務め、体育教育全般の発展にも貢献。日本における初代IOC(国際オリンピック委員会)委員。 |
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広島新四国八十八ヶ所霊場第四番薬師寺から第三番光妙院に行く途中にみた石碑でした。揮毫した人物が嘉納治五郎という処に目が行きましたので立ち止り撮影しました。 |
別に碑文石碑が根際に建立されていました。碑文を読んでいると、広島の山中権八郎の門下となりとありました。何処かでみた名前だと思ったのですが、その時は思い出せなかったのです。帰宅後わが町(安芸区中野の)矢口神社の「(静川源太郎翁)武徳碑」の碑文の中に『・・・山中権八郎極司箭流奥技名聞・・・』とありましたので、有名な武道家だったようですね。 |
11.07.22裕・記編集 |