大河原記念碑

  大竹市元町に建立されている「大河原記念碑」です。
正面: 大河原記念碑
裏面: 明治十五年九月廿七日事件解決 控訴審勝訴當時功勞者
   22氏名 発起人 大竹村長 中川出来太郎
*明治15年=1882年
(こうそいん)
控訴院:
旧裁判所構成法の下で、主として民事・刑事の控訴を管轄した裁判所(内地において、地方裁判所の判決に対する控訴の裁判を行うものでした)。
1882(明治15)年広島控訴裁判所が設置され、1887(明治20)年広島控訴院と改称されました。
広島新四国八十八ヶ所霊場第四番薬師寺から第三番光妙院に行く途中にみた石碑の少し奥に、石碑がみえたので近づいてみたのです。
大河原記念碑と刻まれていましたが、碑文がなく、何に関する事件が解決したのがわかりませんでしたので頁に編集できないかなと思ったのですが、この碑の発起人が大竹村長・中川出来太郎と刻まれていました。
この1882(明治15)年建立の「大河原記念碑」の前にみた「中川出来太郎之碑」、この碑の後に大瀧神社でみた1924(昭和13)年建立の「支那事変 氏神参道改修記念碑」には町長として名が刻まれていましたので、長いこと大竹の長を務めていた人物だなと思いましたので、この碑も取り上げました。
(大竹市の)大河原山には墓地があり、簡易な火葬場があったそうですから大河原山の開発に関することかもしれないと思ったりしますが、正確なことはわたしにはわかりません。
大竹市歴史研究会の資料を参照によると
『大河原山周辺は小方村の所有地だったので大竹村は小方村の許可を得て、大河原山辺りを開墾耕作していました。
明治5(1872)年新政府は、地券(壬申の地券)を交付しました。
小方村では個人所有を確定できない土地が数多くありました。確定できない土地は官有地になるという噂が流れ、古くから開墾耕作していた大竹村の耕作人に、便宜上の名義で地券を交付、保管しました。
その後、事情を知らない新任の戸長が地券を大竹村の耕作人に渡し、大騒ぎとなりました。
小方村は裁判に打って出て、(最終的には)大審院)まで上告したが却下され、裁判費用の支出で、村は財政難に陥りました。
これを機に、明治19(1886)年小方村と大竹村は、大河原山の山林売却を協議、耕作人所有の耕地に加え、荒地、溜池・山林を大竹村に売却することで紛争は解決されました。
その後、半世紀を経て、昭和15(1940)年、耕作人21名の功労を讃えて、この大河原記念碑が建立されました。』そうです。
1954(昭和29)年9月1日佐伯郡大竹町+小方町+玖波町+栗谷村+友和村(一部)=大竹市発足
 11.07.23裕・記編集

11.06.02.撮影
広島県大竹市元町3-14

11.06.02.撮影

11.06.02.撮影



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