大竹邨閘堰碑(二階堂三郎左衛門顕彰碑)

  大竹市元町の児童公園に建立されている「大竹邨閘堰碑(二階堂三郎左衛門顕彰碑)」です。
(碑文を正確に解読する力はわたしにはありませんので、読めるだけですが、)
大竹邨(≒大竹村)
灌漑用として享和初(1801)年藝防に閘(コウ:水門)を設けた。
文化期(1804-1818)堰(セキ:水をせきとめる)を上市に設けた。弘化3(1846)年7月閘門を置いた。
この(現在の中市堰に対する)二階堂三郎左衛門のなしたことを傳えるためこの碑を建てた。
明治廿八年一月 從一位勲一等   近衛忠煕 題額
從二位勲一等伯爵大隈重信 撰之
從三位勲三等   西岡逾明 書之  
*明治28年=1895年
大竹市歴史研究会の資料を参照すると
『この(小公園)児童公園は、もともと胡子神社が鎮座していたが、1967(昭和42)年11月に本町1丁目の大竹会館前へ遷座し、標柱とここで取り上げた石碑が取り残された。』ということだそうです。
(このえただひろ)
近衛忠煕:
(1808-1898)
幕末・維新期の公卿。(公武合体派として活動)。
1862(文久2)年関白・国事掛に就き公武合体を主張、尊攘派に排斥される、従一位に叙さる。1863(文久3)年辞任。その後明治新政府と距離を置き、東京遷都後も京都居住。1878(明治11)年東京に移る。1885(明治18)年勲一等に叙さる。
(おおくましげのぶ)
大隈重信:
(1838-1922)
政治家。肥前国(佐賀)の生まれ。
1873(明治6)年大蔵省事務総裁、参議・大蔵卿。1881(明治14)年政変で下野、翌(明治15)年立憲改進党を組織。1887(明治20)年伯爵を叙する。伊藤・黒田内閣の外相として条約改正、1889(明治22)年爆弾を投げられ片脚を失う。1896(明治29)年第2次松方内閣で外相。1898(明治31)年最初の政党内閣を組織。1914(大正3)年再び首相、第一次大戦を参戦決定。1882(明治15)年東京専門学校(1902=明治35年9月早稲田大学改称。しかし1920年=大正9年2月5日になって大学令による大学)の創立者。
二階堂三郎左衛門は、
貴族院多額納税議員互選者で、(広島県の資料で)、1911(明治44)年6月調で、直接国税納額:地租1978円、所得税1602円、営業税227円を納めているようです。人物についての詳しいことは(わたしには)分かりません。
JR和木駅から大和橋を渡って大竹市に入ろうとした時、上流に堰(の上の歩道橋)をみました。広島新四国八十八ヶ所霊場第四番薬師寺に行くようにしていましたので、途中で撮影出来れば撮影しようと思ったのです。
途中、小公園(児童公園でした)の片隅に「大竹邨閘堰碑」をみましたので立ち止りみました。みると大隈重信の撰文でしたので撮影しました。
碑文を(わたしは正確に)読み下すことができませんでした。
貴族院議員二階堂三郎左衛門が、中市堰を明治時代改修するのに尽力したので、この碑が建立されたようでした。近衛忠煕、大隈重信とのつながりは二階堂が貴族院議員だったことで、揮毫、撰文を依頼したのではないのかと(わたしは)思いました。
 11.08.01裕・記編集

11.06.02撮影
広島県大竹市元町2-3付近 児童公園

11.06.02撮影

11.06.02撮影

11.06.02撮影



「水関連」編



広島ぶらり散歩へ
(小瀬川)中市堰
大竹圭閘堰碑(二階堂三郎左衛門顕彰碑)


「大竹市」編





SEO [PR] カード比較  冷え対策 温泉宿 動画無料レンタルサーバー SEO