四境之役砲台跡・碑、 (四境の役殉難者)平和塔

  山口県玖珂郡和木町のさくら遊園地に建立されている「四境之役砲台跡・碑」と
                                    「(四境の役殉難者)平和塔」を取り上げました。
(ちょうしゅうせいばつ)
長州征伐:
幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。
幕府は蛤御門の変を理由に、1864(元治元)年長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順(きょうじゅん)したので戦わずに撤兵。のち、長州藩首脳のこの処置に不満を抱いた高杉晋作(1839-1867)らの強硬派が恭順派を一掃、幕府に対抗する姿勢を示した。幕府は1866(慶応2)年長州再征を行ったが敗退し、撤兵。以後、幕府の権威は急速に失われた。
徳川幕府側は、「長州征伐」と呼び、第一次、第二次と2度の幕府と長州の戦争(戦役、役)のことです。
第二次の時は、芸州口とともに大島口、石州口、小倉口から幕府軍が長州を攻めたので、長州側は「四境の役」と呼んでいるそうです。
四境之役砲台跡
  昭六十年1十月建之 昭和60年=1985年
  和木町教育委員会
JR和木駅から和木町役場に行っているときに左手に小さな公園がみえてきました、近づくと石碑(石柱)が見えましたので立ち寄りました。
和木町教育委員会が昭和60(1985)年10月建立した石碑でした。
碑面表にあたる面は植栽に隠れわかりませんでしたので、植栽をかき分けて「四境之役砲台跡」碑であることがわかりました。この辺りが砲台あとだったのだろうなと思いながらみましたが、その残り香はないようでした。
平和塔
  殉難諸位追福資助之塔
  今此三界是■・・・・・・(わたしには読めませんでした)
  昭和二十三年八月一日 建立   施主■(読めず) 昭和23年=1948年
「四境之役砲台跡」碑の根際に「平和塔」が建っていました。
今回の和木町を通り大竹市ぶらり散歩の主目的が、「大竹市原爆死没者慰霊碑・叫魂」を訪ね頭を垂れ撮影することでした。大竹市には被爆後負傷した人たちを収容したと聞いていますので、川一つ越えたこの地・和木町(山口県というものの)でも負傷者を収容したのかもしれないと思ったのです。(現在・広島市中区胡町の)福屋百貨店の2・3階が山口陸軍病院として軍・民問わず被爆者の治療に当ったという歴史もあったのです。
この碑が1948(昭和23)年建立という事から原爆関連の平和塔かと思いましたので、和木町役場で尋ねれば判るかなと思い、保健福祉課に立寄り職員の方に尋ねました。ご本人はわからないと云うことでしたが、親切に対応して下さり、教育委員会に連絡して聞いていただいた処によると、原爆関連の平和塔ではなく、「四境の役」で亡くなった方々の供養のために建立されたようですと教えていただきました。
 11.08.28裕・記編集

11.06.02撮影
山口県玖珂郡和木町和木3 さくら遊園地

11.06.02撮影
四境之役砲台跡・碑

11.06.02撮影
(四境の役)平和塔

11.06.02撮影

11.06.02撮影
避難場所 さくら遊園地 小さな公園でした(遊具が整備されているから遊園地なのでしょう)



(「古墳遺跡遺構など」編)



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「大竹市」編





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