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京都府舞鶴市字平の引揚記念公園に建立されている「平和の群像」です。
※像の作者は矢野判三(1898-1991)です。 |
引揚記念公園「平和の群像」建設趣意書 |
第2次世界大戦の終戦による外地からの引揚業務処理のため舞鶴引揚援護局が設置されたのは、昭和20((1945)年11月24日。以来昭和33(1958)年11月15日の閉局まで、664,531人の引揚者と16,269柱の遺骨とを受け入れ、32,997人を送還した。ここに明暗と哀歓とをおりまぜて、多大な人員と広大な地域的規模において、いまだかつて例を見ない引揚業務が終了したのである。
この地に引揚げた人々は、敗戦によって、財貨も社会的基盤も信用もときに肉親すら失い、身一つでたどりつき、孤独と貧困のうちに人生の再出発をせねばならなかった。われわれは、二度と再び戦争を容認し、かかる悲惨事を繰り返してはならない。 |
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舞鶴市は逐年平和産業港湾都市として発展し、引揚援護局跡は産業施設がこれに代わり、昭和44(1969)年7月3日、引き揚げに使用された庁舎の最後の3棟も撤去されて、今や引き揚げの事実を物語り、往時をしのぶよすがもなくなっている。
この援護局最後の庁舎の撤去を期に、多くの引揚者が母国への第一歩を印した思い出の地、ここ舞鶴に記念公園を建設し、「平和の群像」を設立して、この地に帰りえず、異境に倒れたいくたの霊に弔意を表するとともに、世界の平和を願い戦争を永久に放棄する日本国民の悲願をこめて、長く後世に伝えんとするものである。 |
昭和45(1970)年3月 京都府知事 蜷川虎三(1897-1981) 舞鶴市長 佐谷靖(1905-1978) |
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平和の群像 |
昭和45(1970)年、引揚公園開設と同時に京都府によって設置
制作者: 矢野判三(日展会員) |
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趣旨文を読むと明確に反戦平和を願った文になっていました、蜷川知事(1897-1981;知事在任1950-1978)の意志が強く反映した文章なのだろうなと思いました。
平和の群像を見ていて、日本人がモデルではなかったのだろうなと思いました、世界の平和を願っているのだから何も日本人に固守することもないかとも思いましたが・・・・ |
08.07.07裕・記編集 |
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06.08.11撮影 |
京都府舞鶴市字平 引揚記念公園 |
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06.08.11撮影 |
06.08.11撮影 |
台座前面にはレリーフがはめ込まれています |
三人の子供がしっかりと手をつないでいます |
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06.08.11撮影 |
06.08.11撮影 |
台座裏側には「平和の群像」建設趣意書 |
大人の女性が手を上に天を仰ぎ平和を願っている表現だそうです
後ろから見るとその女性を支えている女性も・・・ |
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06.08.11撮影 |
台座前面のレリーフ 引揚者たちと引揚げ船が刻まれています |
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