(わが町附近の)西国街道

  現在の広島市安芸区も通っていた旧西国街道についてこの頁で取り上げています。
山陽道と西国街道の呼称の違いがあります。
歴史的な違いがあり、道筋も違ってきている処もありますが、現代で表現する呼称的にはほぼ同じと考えていいのではとわたしは勝手に解釈しています。
(さんよう どう)
山陽道

古代、律令期における国の上部の地域単位である五畿七道の一つ、およびそこに設定された官道の名称です。
中国地方の南側にあたり、734(天平6)年に安芸、周防の国境が定められて、播磨、美作(みまさか)、備前『延喜式』では以上近国)、備中、備後(以上中国)、安芸、周防、長門(以上遠国)が確定しました。美作以外の瀬戸内海側を京と大宰府を結ぶ古代の最重要路山陽道が貫通し、原則として駅馬20〜30疋(ぴき)が常備されていました。
駅数は『延喜式』では合計54駅でありました。
(さいごくかいどう)
西国街道:
近世には京都と長崎を結び、江戸へ続く主要街道で、山陽道の名でも呼ばれています。
17世紀(江戸時代)現在の形にできた西国街道は、当時陸上の大動脈として文化、社会の交流に役立っていました。
これが基になって、今の国道2号になっていますが、わが町附近では旧国道なのです。
中世以前の山陽道は、
(現:安芸区)畑賀から(現:安芸郡・海田町)日浦山の北側甲越(こうご)えを(現:安芸郡府中町)府中へ抜けるのが、通常の道筋でした。∴海岸沿いに海田市を経由する道路はまだ十分整備されていませんでした。
その後、江戸時代に入り1633(寛永10)年に、幕府巡見使の巡察が行われたのに伴い、広島藩内の道路制度は画期的に整備が進められ道幅二間半(約4.5m)に定められ、宿駅として海田市の発展が始まったのです。
旧山陽道(西国街道)は、大坂と下関を結ぶ主要道として、重要な役割をはたしていました。
巡見使(じゅんけんし)≒江戸幕府の職名。将軍の代替わりごとに諸国の政情を視察した職。
わが町(旧瀬野川町)を通る旧国道が安芸山陽道と呼ばれ、旧西国街道だったという事を知ったのは1982年(わたしが)広島に帰ってきて(東区から通勤で)安芸区で仕事をするのに通った事からでした。
当時は両側に側溝があり大型車とすれ違う事がままならぬ道路幅でこれで世界を相手に戰争をしたのかと思ったものでした。現在は側溝には蓋がされ道路幅も少しばかり広がっているとはいえ現在の国道2号線と比べれば狭い道路ではあります。
何をもって昔とするのかは個人的な考えもありますが、昔の面影を残している(とわたしが思った)処もありますので、ぶらり散歩したときに撮影していこうとしています。
06.12.04裕・記編集

06.02.22撮影
広島市安芸区上瀬野町大山附近

06.02.02撮影
広島市安芸区中野1丁目80番地附近の街道沿いの出迎えの松をみる



「通り・街道など」編



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「わが町附近」編





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