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安芸区畑賀町の(現在の)甲越峠ですが、「古代山陽道の甲越峠」についてこの頁で取り上げました。 |
古代山陽道は(畑賀川から分かれる水谷川沿いの)水谷峡の曽我神社から登り笹ヶ峠を通り当時国府があった府中町に通じていましたが、笹ヶ峠が難所であったので、後にこの甲越峠を通る道になりました。
現在・主要地方道東海田広島線として舗装整備されていますが元々の道は荒れ半分近くが消失しているそうです。 |
(さいごくかいどう)
西国街道: |
近世には京都と長崎を結び、江戸へ続く主要街道で、山陽道の名でも呼ばれています。
17世紀(江戸時代)現在の形にできた西国街道は、当時陸上の大動脈として文化、社会の交流に役立っていました。これが基になって、今の国道2号になっていますが、わが町附近では旧国道なのです。 |
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中世以前の山陽道は、(現:安芸区)畑賀から(現:安芸郡・海田町)日浦山の北側甲越(こうご)えを(現:安芸郡府中町)府中へ抜けるのが、通常の道筋で、海岸沿いに海田市を経由する道路はまだ十分整備されていませんでした。
その後、江戸時代に入り寛永10(1633)年に、幕府巡見使の巡察が行われたのに伴い、広島藩内の道路制度は画期的に整備が進められ道幅二間半(約4.5m)に定められ、宿駅として海田市の発展が始まったのです。旧山陽道(西国街道)は、大坂と下関を結ぶ主要道として、重要な役割をはたしていました。 |
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わが町を通る旧国道が旧西国街道だったという事を知ったのは四半世紀前広島に帰ってきて安芸区で仕事をしたことで知ったのですが、当時わたしは、東区牛田に住んでいましたので(同僚運転の車に同乗させてもらい)府中町からこの峠を越えて安芸区畑賀に出る道路を通勤に利用していたのです。
後年古代山陽道はこの甲越峠を通っていた事を、西国街道の資料をみていて知ったのでした。 |
07.13.23裕・記編集 |