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廿日市市桜尾本町に残っている「西国街道の街道松」をこの頁で取り上げています。 |
街街道松
旧国道筋は江戸時代には西国街道と呼ばれ、大阪から長崎に通じる重要な道でした。この道には一里(約4km)ごとに一里塚松があり、道の両側に三間(約6m)ごとに街道松が植えられ、美観と共に旅人に便宜を与えていました。このあたりまで、文政2(1819)年※には68本の松並木があったと記録されています。廿日市市内では、現在わずかにこの1本だけとなり、昔の面影をしのばせています。 廿日市市教育委員会 |
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説明板には文化2年(1819年)と記述がありますが、文化2年は1805年で、1819年は文政2年です。
「文政2(1819)年に提出された芸藩通志下調べ帖に書かれている。」という事を廿日市のボランティアガイドをされていたU氏に教えていただきましたので訂正しました。 |
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西国街道が廿日市領内で整備されたのは、寛永10(1633)年のことで道の両側にはたくさんの松の並木が植えられ、街道に風情を添えて、旅人を楽しませたそうです。松並木には、夏は緑陰の下に休息の便を演出し、冬は風雪を防ぐ役割もありました。
寛永12(1635)年から制度化された参勤交代などをきっかけに、街道筋の整備が進められ、毛利輝元による広島城下町の建設が、古来からの山陽道のコースを大きく南下させ、広島城下から己斐村を経て、廿日市へと沿岸部を通る近世の西国街道の形成を促したといわれています。かつては美しい松並木の風情を育てていましたが、現在、その風情はすでになく、大東から可愛川に至るまで、独特のカクカクと曲がった古い町屋が残り、往事の街道の名残をわずかにかいま見ることができます。 |
※上記資料は、廿日市観光協会の資料などを参考にしました。 |
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2007年交流ウォーク探検隊時、わたしははじめてこの街道松をみました。
説明板を読めば200年前は86本も残っていたのが現在は1本になったと昔の面影を想像しようとしても周りの風景からはチト無理でした。 |
10.05.18訂正 07.05.13裕・記編集 |