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安芸郡海田町字飯の山に建立されている「加藤缶楽墓」です。 |
加藤缶楽(かとう ふらく)の墓 {名は有益(ゆうえき):1673-1738} |
学芸の振興に熱心だった海田市において、中心的役割を果たしたのが、加藤家(猫屋)です。中でも江戸中期に海田市の庄屋(里正)を務めた加藤缶楽は、京都の山崎闇斎(1618-1682)の高弟子で藩儒の植田艮背(1651-1735)から神儒学を学び、特に朱子社倉法を研究して「社倉攷意(しゃそうこうい)」を著すなど、役務のかたわら終生学問に打ち込みました。
加藤缶楽の子十千{じゅうせん、名は友徳(ゆうとく)}は藩儒に登用され、延享4(1747)年矢野の香川将監(しょうげん)らと社倉法を実施に移し、その後の救恤(きゅうじつ)対策として全藩内で実施されました。
ここ飯の山(馬背山)には加藤一族のお墓があり、缶楽の妻・砂(閑子)はこの地からみた光景を「浜千鳥の記」(藝藩通志に所収)に描写しています。 |
昭和63(1988)年11月1日(平成19再建)海田町教育委員会 |
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お墓の文字が近年墨入れされたようではっきりと読めました。
諱(いみな):友益、稱:次郎左衛門、呼名:新右衛門、里正(庄屋)を辞した後:缶樂、別號:守直、幼名:久五郎。1673(延寶元・癸丑)年1月25日〜1738(元文3・戊午)年9月18日でお墓は子の友徳が建てた.。 |
日宇那でみた社倉から海田市の(儒学者)加藤缶楽のことを知ったので、今回自転車でわが区の図書館に行った帰りに海田町稲荷町にあるお墓にいって撮影してみようと思ったのです、案内板が付いていながら墓地になってから場所が判らなかったのです、近所のおばあちゃんが居られたのでお墓の場所を聞いたのです(加藤缶楽のことを知っておられ)、もう少し上の墓地ですよと・・・行くと説明板が設置されていましたが判りつらかったのです、近年墨入れされているようで、キョロキョロしてみたら加藤缶楽のお墓はわかりました。 |
08.06.14裕・記編集 |