伝説:大内越道
  東区山根町にある「大内越道」を取り上げました。
広島城下から中山、温品(ぬくしな)、馬木、福田への往来の峠が大内越峠(おおちごとうげ)です。
三田往来※と呼ばれた街道に位置し広島から最初の峠です。
むかし、安芸郡府中町出張山に(安芸)武田氏の配下・白井備中がたてこもっていたそうで、(周防の)大内義隆(1507-1551)は51日間攻撃を重ね落城させた。その跡に大内氏の配下・白井万五郎を城番として置いたそうです。
この戦いの時、陣屋を構えその後も大内氏より日々往来があったので、大内越道という名があるそうです。
1541(天文10)年銀山城の武田氏を滅ぼしました。
三田往来は、古代には高田郡三田郷(現在の白木町域)から安芸国府へ往来があり、安芸高田市の吉田郡山(俗に吉田道)と三次支藩(俗に三次往来・中郡道(なかごおり))への連絡道で、中世以来数多くの人々の往来があり、尾長の大内越峠より中山・温品・馬木・福田・小河原・深川・狩留家を通り、白木町三田地区から井原市に至ります。
江戸時代には狩留家からは、賀茂・豊田の各郡の年貢米が繰り出され、三田船(三篠川舟運シュウウン)により広島城下に運ばれ、内陸地域への重要な交通路ともなっていたそうです。
おうらい
往来
1)行ったり来たりすること。
2)人の行き来する道路。街道。
東区区政振興課発行「夢街道・ルネッサンス」では大内越峠(おおちごとうげ)と振り仮名をふっています漢字に振り仮名を振ればこうなるのでしょう(漢和辞典で峠を引いてもタオとの読みはありません)が、
現在、山根町にお住まいのM氏は子どもの頃『おおちごだお、おうちごだお』と云われていたそうです。
大内越峠について: 大内越峠に‘おおちごだお’と振り仮名は振れないと(わたしは)思いますが、「おおちごだお」「おうちごだお」と呼ばれていた(呼ばれている)ことはわかりました。
(たお)
撓:
 峠。鞍部(あんぶ=山の尾根のくぼんでいる所)。「タオヲコユル/日葡」
以前仕事の関係でこの大内越峠を自転車で行き来したことがありました、下から峠の上まで自転車に乗ったままわたしは行けず途中から押していましたが、わたしの横を自転車に乗ったまま抜いて行く人もいましたので驚くほどの急な坂ではありません、その当時わたしはこの伝承があることはまったく知りませんでした。
09.08.03更新  07.10.11裕・記編集

07.06.18撮影
広島市東区山根町付近から大内越道をみる

07.06.18撮影

07.06.18撮影

07.06.18撮影
バス停:大内越峠 道路標識:大内越通り



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