佐々木禎子さん展示パネル

  中区中島町の平和記念資料館などで展示された「佐々木禎子さん展示パネル」をこの頁で取り上げました。
サダコ [ ある少女の死 ]
1945(昭和20)年8月6日被爆した佐々木禎子さん(2歳の時)は、健康に成長しているように見えましたが、10年後の1955(昭和30)年小学校6年生の時に白血病と診断されて、入院しました。
禎子さんは、折り鶴を千羽折れば必ず病気は治ると信じ、病院で鶴を折り続けました。しかし、その願いもむなしく8ヶ月の闘病生活の後亡くなりました。
この事実は、被爆して何年もたってから障害が現れる放射線の恐ろしさを示しています。
この禎子さんの死と折り鶴の話に大きな衝撃を受けたクラスメートは、原爆で死んだ子ともたちの霊を慰め、再び戦争が起こらない事を願って、原爆の子の像をつくる募金運動をはじめました。この運動は、全国の学校へ、そして世界へと広がり、1958(昭和33)年に広島の平和記念公園に折り鶴を高く捧げた少女の像が建てられました。
像の下の黒御影石には「これはぼくらの叫びです。これは私たちの祈りです。世界の平和をきずくための」と碑文が刻まれています。

禎子さん小6の時、中國新聞提供
12歳という短い生涯だった佐々木禎子(ささきさだこ)さん関連頁を編集してきましたが、佐々木禎子さんの写真はわたしの頁では紹介していませんでした、(関連書物から使用することは著作権、個人情報保護法に抵触しないかなどと考えていたからです)。しかし、自由に見ることができる展示スペースにあったパネル全体を紹介することで、佐々木禎子さんの6年生当時の写真が紹介できるとおもいこの頁を編集しました。
平和記念資料館・東館1階ロビーはさほど広くはないスペースですが、その南側(の東側)に少し引っ込んだスペースの壁に、いままで広島の被爆後のパノラマ写真が展示されていたのです。2008年2月に立ち寄ったとき、展示のパネルが変わっていました、みると佐々木禎子さんのことが記された「サダコ・ある少女の死」というパネルがありましたので、それを撮影しました。4月4日に立ち寄った時はすでにありませんでした。
2010年8月6日通称平和記念式典の後いまはなき旧広島市民球場に設置されていた折り鶴仮展示場を見学した時に、展示のパネルに禎子さんの晴れ着姿のパネルがありましたので撮影したのです。
仮展示場は旧市民球場とともに撤去されましたが、このパネルは今後の行事でも使用される為に保存されていることだろうと思いこの頁を、再編集するにあたって、追記しました。
12.03.17再編集  08.04.22裕・記編集

08.02.16パネルを撮影
広島市中区中島町1 (広島平和記念資料館1階ロビー展示)
  禎子さんが白血病でもう長くないということを知った両親は、今まで一度も晴れ着を着せたことがなかった禎子さんのために、桜の模様の生地を買って、晴れ着をつくりました。なんとか禎子さんを喜ばせたいと思ったのです。
-(追悼文集「こけし」お母さんの文章より)-
晴れ着を見せると「まあ、お母ちゃん、私のために無理をして」と涙をいっぱいにして言いました。
「お願いだから着てみてちょうだい」と言うと、素直に涙をふきながら喜んでいました。

10.08.06パネルを撮影

晴れ着姿の禎子さん 1955(昭和30)年/幟町小学校
広島市中区基町5-25  (旧広島市民球場2階の仮折鶴展示場)



「広島ゆかりの人たち」編



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