(暁橋根際の)水路開鑿供養塔

  南区宇品海岸の暁橋根際に建立されている「水路開鑿供養塔」です。
海上の孤島であった宇品島でしたが、1889(明治22)年宇品港完成で島と本土が繋がりました。
繋がれることになった最大の理由は、広島湾は冬季、西風や北西風が強く激浪が宇品島へ向かって押し寄せ、遠く海田沖まで吹き荒れる状態で、これを到底宇品では凌ぐことが難しく、この季節風を防ぐために宇品島と(宇品)築港の西南端を直線に連結することによって解決しようと計画されたことです。
ところが、宇品島の南端を遠回りしなくてはならなくなり、航程上労力と時間に無駄が多くなり、冬季など風浪の為島を回られない船が出てきたりしたので、水路開鑿運動が展開されることになりました。
1893(明治26)年宇品町住人野間喜平外6名の船関係業者が広島県に陳情し水路が作られることになりました。
水路の幅は、僅か3m位で、港内に土砂流入を防ぐ為に観音開きの頑丈な扉を設け必要に応じ開閉する設計でした。
水路の上に架けた橋を眼鏡橋と呼んでいましたがこの名の起こりはよくわかりませんが、一説には橋上から下を覗くと扉と設置の石垣があたかも眼鏡を思わせるような形状から呼ばれるようになったそうですが。
その後、大東亜戦争中に陸軍暁部隊が船艇往来の必要から幅を拡げ橋を架け替えて暁橋と名を改めました。




























利益






















































沿


























目的ヲ


現今繁栄ノ

























賛助








































和助



















































便
























※碑文資料は、元宇品小学校・萩野純宏元校長がまとめられた「元宇品の歴史」を参考にしました。
広島ぶらり散歩「広島の橋」編に暁橋をということで撮影に来た時、上部が壊れているこの石碑に気がつき撮影はしたのですが碑銘からわからなかったのです。また、石碑の碑文をわたしが読めたのはほんの一部でしたので編集途中からはほったらかしにしていたのです。先日、元宇品小学校・萩野純宏元校長だった先生が古老から宇品の歴史について聞きとりまとめられた冊子を交流ウォークの藤井先生からいただいたのです。
その中にこの石碑の欠けた部分も含めて碑文を解読されていましたので、今(2009年)になりましたが、頁としてまとめることができました。
碑文の中にある「白玉」とは何だろうとは思ったのですが、碑文のつながりがわからずほったらかしでした、今回「白玉桜中の人となる」という事がわかりました、文の繋がりから死去されているというようなことだろうとは思ったのですが、辞書を引くこともなかったのです。知らないことをほったらかせないなと辞書を引いてみましたが、理解できるほど古典の勉強してこなかった事を恥じています。
09.08.19更新  09.08.14裕・記編集

07.08.17撮影
広島市南区南区宇品海岸2 (暁橋根際に建立)

07.08.17撮影
西風を凌ぐ為に宇品島(現・元宇品)と本土(現・宇品町)を繋げたことが地図からわかるように思うのですが
(はくぎょくろう)
白玉楼:
「書言故事(祭奠類)」「唐詩紀事(李賀)」などにある。
唐の詩人・李賀(りが:791-817)が死ぬ時に天帝の使いが来て、天帝が白玉楼を完成し、李賀を召してその由来を書かせることになったと告げたという故事による。文人が死後に行くという楼。
はくぎよくろうちゆう のひととなる
白玉楼中の人となる
文人が死ぬことをいう。



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(暁橋根際)水路開鑿供養塔





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