昭和22年(1947年) 平和宣言

  この頁では、第一回の平和宣言を取り上げました。
今(2007年8月11日)朝TVみていたら、第一回の平和宣言を取り上げていました、テロップ付で読み上げていましたが、じっくり聞くことができませんでしたので、改めて調べこの頁を作成することにしました。60年前の平和宣言とあの初代防衛相発言との根本に流れる考えの違いを知りたいと思ったからでした。
1945(昭和20)年の原爆投下から2年後の1947(昭和22)年平和を訴える機運が盛り上がり、第1回式典にあたる「広島平和祭」が実現しました。8月6日の式典で(当時の)浜井信三市長が最初の平和宣言を読み上げたのです。以降、戦争放棄、核兵器廃絶、恒久平和の実現は、宣言の柱となって今日まで受継がれています。
「広島平和祭」は現在の(通称)平和記念式典の原型です。
「原爆の体験を世界に訴えることができるのは被爆体験のある広島市民ではないか」そして「被爆市民の平和への意思を全世界に宣明する」という発想は、(当時の)NHK広島・石島治志局長の発案だったそうです。

(平和記念資料館東館展示)04.12.03撮影
「広島平和祭」式典では広島市長が「平和宣言」を発し、(当時の)片山哲首相(1887-1978:第46代内閣総理大臣1947-1948)、占領軍総司令官マッカーサー元帥(1880-1964)が異例のメッセージを寄せたそうです。
 1947(昭和22)年平和祭、浜井信三市長の平和宣言は、日本が占領状態で、プレスコードが敷かれていた状態だったことを忘れてはいけないと思ったりしました。
07.08.11裕・記編集
  本日、歴史的な原子爆弾投下二周年の記念日を迎え、われら広島市民は、いまこの広場に於て厳粛に平和祭の式典をあげ、われら市民の熱烈なる平和愛好の信念を披瀝し、もって平和確立への決意を新たにしようと思う。
  昭和20年8月6日は広島市民にとりまことに忘れることのできない日であった。この朝投下された世界最初の原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして潰滅に帰し、十数万の同胞はその尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した。しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸いであった。
この意味に於て8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されなければならない。われらがこの日を記念して無限の苦悩を抱きつつ厳粛な平和祭を執行しようとするのはこのためである。
けだし戦争の惨苦と罪悪とを最も深く体験し自覚する者のみが苦悩の極致として戦争を根本的に否定し、最も熱烈に平和を希求するものであるから。
  又この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。これこそ絶対平和の創造であり、新らしい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない。
われわれは、何か大事にあった場合深い反省と熟慮を加えることによって、ここから新らしい真理と道を発見し、新しい生活を営むことを知っている。しかりとすれば今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新らしい文明へのさきがけとなることでなければならない。
  この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
  永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。
  ここに平和の塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する。
1947(昭和22)年8月6日 広島平和祭協会長・広島市長  濱井信三  
平和宣言資料は広島市企画総務局 国際平和推進部の資料を参考にしました
かいめつ
壊滅;潰滅
組織・機構などがすっかりこわれてなくなること。
けだ し
蓋し
副詞〔多く漢文訓読に用いられた語〕かなりの確信をもって推量する意を表す。
思うに。確かに。おそらく。たぶん。
さんく
惨苦
ひどい苦しみ。つらい苦しみ。
しょうらい
招来
1)人を招いて来させること。例「海外から指揮者を招来する」
2)ある結果を引き起こすこと。将来。例「不幸を招来する」
きょくち
極致
到達しうる最高の境地やおもむき。



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