原爆落下中心地碑

  長崎市松山町の“原爆落下中心地公園”に建立されている「原爆落下中心地碑」です。

ここは原子爆弾が投下された中心地です。この説明板の右側にある黒御影の脊柱はその中心地を示しています。
1945(昭和20)年8月9日午前11時2分爆撃機B29により投下された原子爆弾はこの地上500m上空で炸裂、爆風と熱線と放射線によって市街地は廃墟と化しました。
そのため長崎市の北部一帯は全焼し、約15万人の死傷者を出しました。「75年草木の生じることなし」といわれたこの地も今や平和公園として訪れる人々に世界の恒久平和を訴える発信地となっています。(長崎原爆資料館に当時の惨状を示す原爆被災資料を展示しています)
この写真は1945(昭和20)年10月に撮影されたもので原爆投下後最初にこの地に立てられた原爆落下中心地を示す標柱です。その後何度か建て替えられ現在は黒御影の石柱になっています。

資料は設置の説明板を参考にし、写真も使用しました。
日本語の表現を縷々云えるほど専門的に勉強してきたわけではありませんが、この碑が意味するところは原爆殉難者の冥福を祈り、再びこのような惨禍を繰り返さないようにとの思いが込められているのはわかるのです。
しかし、原爆が漫然と落下してきたわけではなく、米国(第33代)トルーマン大統領(1884-1972)が1945年7月25日原爆を日本国に対して投下する命令をだしました。その命令に従い米軍によって長崎には1945(昭和20)年8月9日(木)11時2分に投下、炸裂した中心地であることはわざわざ云う事でもないのでしょうがあえて、わたしはここに記述しました。
この「原爆落下中心地碑」が撤去され「被爆50周年記念事業碑」(母子像)を設置しようと計画がなされたようですが、反対にあい現状(のまま)となっているようです。
05.10.27裕・記編集

05.10.14撮影
長崎市松山町171番地

05.10.14撮影
後ろの方からみた、浦上天主堂遺壁と原爆落下中心地碑

05.10.14撮影
  昭和20(1945)年8月9日午前11時2分1発の原子爆弾がこの地の上空500mで炸裂し、一瞬73,800人の尊い生命を奪い、76,700人の負傷者を出した、同時に家屋の焼失11,500戸、全壊又は大破したもの6,700戸、この地を中心として2.5kmに及ぶ地域が破壊した。その惨状は筆舌に尽くし難い。
ここに原子爆弾落下の中心地を示すためこの碑を建てる。
昭和31(1956)年3月 
    長崎市長 田川 務
原爆殉難者名奉安(折鶴に隠れていますが)
平和祈念像前の池に「原爆殉難者名奉安所」が設置されていたが、1997(平成9)年8月1日奉安所が原子爆弾落下中心地碑前に移設されマイクロフィルム化された原爆死没者名簿が納められたそうです。
殉難(じゅんなん) 国家・宗教や公共の利益のために一身を犠牲にすること。
奉安(ほうあん】 尊い物を安置すること。



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