浦上天主堂・詳細

  長崎市本尾町の浦上天主堂でここにみた像や記念碑などをここでは取り上げました。
※「浦上天主堂の歴史と由来」、「マリアの首」碑、被爆した聖像、信仰乃碑、ヨハネパウロ二世像などです。
浦上天主堂の撮影した詳細の画像を整理したのですが、度々いけない長崎ですので撮影がまずく判明しないものもあります、天主堂に登りながらみた石碑柵があり近づけなかったので「マリアの○○」と判読できなかったりと。
お分かりの方がおられれば教えていただき、間違いのご指摘もあれば、お願いいたします。 05.12.06裕・記編集
浦上天主堂の歴史と由来
浦上は戦国時代の末ころからキリシタンの村であった、その後徳川幕府のキリシタン弾圧近くは1868(明治元)年浦上村民総流配が決定され名古屋以西の21藩に浦上信徒3414人が流配された※。1873(明治6)年キリシタン弾圧は停止された信徒たちは帰村したがなによりも欲しかったのは「神の家」魂のよりどころである天主堂であった。
1880 明治13年 信徒たちは旧庄屋屋敷を買収して仮天主堂とした。
1895 明治28年 長い弾圧と流配の打撃から生活の再建も充分でなかったのでこの年になってようやく天主堂の建立に着工。主任司祭フレノ師(仏人)が設計監督し信徒たちは材料運搬などの労力奉仕のほか、それぞれ分に応じた献金をした。設計は石と煉瓦造りの壮大なロマネスク様式であったが資金難から工事は途絶えがちで1911(明治44)年フレノ神父は過労に倒れた。後任のラゲ神父(ベルギー人)が工事を続行したが早く完成するため屋根を木造に瓦葺に設計変更した。
1914 大正3年 20年の歳月を経て赤煉瓦造りの天主堂が完成し3月17日浦上信徒発見の記念日にコンパス司教によって献堂式をあげた。床面積1162u(352坪)東洋一の大天主堂であった。
1925 大正14年 双塔ができて、2個の聖鐘が吊るされた。着工から30年目であった。
1945 昭和20年 8月9日原爆被災により破壊焼失した。
信徒も12000人のうち8500人が爆死したと推定されている。
1959 昭和34年 原爆被災前の天主堂をモデルにした鉄骨コンクリート造りの現在の天主堂が落成し11月1日ローマ教皇庁公使フルステンベルグ大司教によって聖別された。床面積1679u(509坪)
1962 昭和37年 1月1日大司教座聖堂(カテドラル)に指定された。
1980 昭和55年 完成後21年経過したこの天主堂はあちこち補修の必要にせまられていた、時あたかもローマ教皇の訪日が決まりつつあり有史以来初めてのこの慶事を記念して歴史性の高い原爆被災前の天主堂のように外装は赤煉瓦造り窓は全部ステンドグラスにするなど内装も整備して10月完工した。なお浦上は現在信徒数8500人日本で一番信徒が多い小教区です

05.10.14撮影
天主堂に行く途中似建立されている「マリアの首」碑(マリアはわかりましたが下が?)

05.10.14撮影
浦上天主堂

05.10.14撮影
被爆で首から上がとんだ聖像、聖ヨハネ聖像、聖マリア像

05.10.14撮影
横に並べられている被爆した像など

05.10.14撮影
信仰乃碑
大正9年11月
浦上天主公教信徒誌す
ヨハネパウロ二世像

05.10.14撮影
教皇ヨハネ・パウロ二世

  私は、栄光と悲劇の跡をとどめている歴史の町、こゝ長崎を訪れ、栄光を勝ち取り悲劇を乗り越えた人々の子孫であり、後継者である皆さんにお話できることを神に感謝します。私は大きな愛情と、この地方教会の素晴しいカトリックの伝統に対する深い尊敬の念をもって、皆さんにご挨拶の言葉をのべます。
(二十五日の説教の冒頭のお言葉)
教皇は浦上の教会座聖堂に於て1981(昭和56)年2月25日司教叙階のミサを司式され翌26日に修道女達にお話をなされた。
※叙階(じょかい)=カトリック教会で、聖職位に就けられること。また、就くこと。按手(あんしゆ)を受けて司教・司祭・助祭になること。
関連頁:(浦上天主堂)ヨハネパウロ二世像(大浦天主堂)ヨハネパウロ二世像(世界平和記念聖堂)ヨハネパウロ二世像

05.10.14撮影
浦上天主堂石垣 爆心地から北東≒500mの距離にある浦上天主堂は小高い丘に位置していた。この地はもとは旧浦上山里村の庄屋屋敷のあったところで、この石垣も屋敷の石垣であったが1880(明治13)年聖堂建設のため浦上教会がこの地を買収した。1945(昭和20)年8月9日午前11時2分(米軍投下の)原子爆弾の炸裂により天主堂は崩壊したが石垣は残りましたが築造後長い年月を経て老朽化し安全を考慮して現在の形状のまま背土を改良し破損した石を取り替えるなどの修復をした。
この石垣は庄屋屋敷を出発点に原爆で崩壊した旧天主堂、その後再建された天主堂のそれぞれの石垣として時代を声平和のメッセージを送り続けている。長崎市はこの戸でなくなられた方々のご冥福をお祈りし二度とこのような惨禍が繰り返されないことをねがって、この銘板を設置する。
2000(平和12)年3月長崎市(原爆資料館)

05.10.14撮影
説明碑の被爆後の写真を使用しています
※浦上四番崩れ
長崎県で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件のことです。
1867(慶応3)年隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けたました。江戸幕府のキリスト教禁止政策を引継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされました。
このことは諸外国の激しい非難を受けたことで、1873(明治6)年にキリシタン禁制は廃止されました。
1614(慶長19)年以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになりました。



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(己斐に建立の)キリシタン殉教之碑
五日市で殉教したキリシタン・碑
(番外)浦上天主堂
(番外)(津和野)マリア聖堂





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