拓友よ眠れ  (広島県送出元満州開拓青年義勇隊物故者・碑)
碑文 広島県送出 元満州開拓 青年義勇隊の物故者をまつる
  この碑は生還者と遺族並びに広島県 市町村 各小中学校その他有志の協力によって建てられた
広島県から出た約五千人の義勇隊員のうち諸君ら 八百六十一人は 満州の地で短い生がいを終わった 1945(昭和20)年敗戦によって激変する環境の中で 人々はさまざまな死を迎えたが 諸君の死ほど この時代の歴史に刻み込まれなければならぬ死は少ないだろう あの頃 青年というよりむしろ少年の幼さで親と別れ 彼の地の土になろうとしての当然のさだめであったとしても 諸君のような若い身で そのさだめをもったことが僕らには悲しい
  死んだ諸君 民族の融和は いま新しい時代の息吹をもってとなえられようとしている この時代に僕らは思う「生きるとは何かを創ること」だと 僕らは これから自分で自分を創り 再びかかることの起らないために 民族融和の道を歩もうと思う。
昭和35(1960)年3月20日 広島県の生還者一同しるす
  2000年になって原爆関連の慰霊碑を巡りだしたわたしでした、平和記念公園から平和大通・緑地帯を西に行った処の広島市立第二国民学校慰霊碑に頭を垂れ撮影したのですが、西側すぐにこの碑が建立されていますので目に留まりましたが原爆関連の慰霊碑ではありませんでしたので、「平和大通りの頁」を作成している今になりました。碑文を読むと民族融和という錦の御旗のもとに満州開拓に多くの青少年が義勇隊ということで向っていったことがわかりました。
 07.07.01裕・記編集

’07.02.13.撮影
広島市中区土橋町側平和大通り緑地帯町

’07.02.13.撮影
拓友(とも)よ眠れ                      碑意匠構成:小間信夫

’07.02.13.撮影
碑文 広島県送出元満州開拓青年義勇隊の物故者
満蒙開拓青少年義勇軍
1938(昭和13)年に満州に青少年を移民として送り出し、将来大規模経営の農業者を育成し豊かな農村を築きあげ、日満一体、民族協和の実をあげることを目的に閣議決定で設置が決まり、加藤完治(農本主義者:1884-1967)らにより組織され、1945(昭和20)年まで存続しました。訓練期間は3年、そのほとんどは満州での訓練であったが、このうち数ヶ月間の基礎訓練が、水戸市の内原訓練所で行われ、卒業者は約8万人で、すべてが15才〜19才で全国から選抜されました。
資料はウィキペディア等を参考にしました



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