三上義夫博士顕彰碑
  中区中町平和大通り(北側)緑地に建立されている「三上義夫博士顕彰碑」です。
三上義夫博士は、1875(明治8)年2月16日広島県高田郡甲立町*に生まれ、1896(明治29)年仙台市第二高等学校に入学せられたが、眼疾のため数ヶ月で中途退学し、以後は独力を以て英・独の数学書を読破し後年の該博明哲な学識を培われた。
1905(明治38)年、博士は和算の研究に着手せられたが、和算興隆の基礎となった中国の数学に着目し、先ずその沿革の考究に没頭せられた次いで1908(明治41)年、帝国学士院の委嘱を受けて和算史の調査に従いこの方面に関する基礎を定められ、1911(明治44)年東京帝国大学哲学科選科に入学し、更に大学院に進んで益々研鑽を重ねられた。
かくして博士は科学史の根柢に横たわる哲学的諸問題の究明に努められると同時に、和算資料の蒐集分析に一層のの力を注がれた結果、1913(大正2)年には「文化史上より見たる日本の数学」を発表されたが、この書は文化史的方法論のもとに日本数学史の根本問題を論究されたものであって、我が国科学史の研究上全く画期的な意義を有する労作であった。
博士はやがてこの方法を中国の数学にも適用され、その成果は「支那と日本との数学の発達」(英文)、「支那数学の特色」「畴人伝論」、「支那数学史」など一連の論者となって世に送られ、中国及び欧西科学史家の高く評価するところとなり、1929(昭和4)年国際科学史委員会会員に選ばれるに至った。かくて博士の学殖は愈々富み、その名声は日に昂まり、1933(昭和8)年には招かれて東京物理学校講師となり、次いで教授に進み、多くの子弟に和漢の数学史を講じられた。博士の学的精力は晩年に及んでも少しも衰えず、「圓理の発明に関する論証」(1930年)など、関流数学に関する綿密な研究を発表せられ、和漢の巧緻な観念的性格は博士の手によって完全に科学的に解明されることとなった。1949(昭和24)年には、学位請求論文「関孝和の業績と京坂の算家並びに支那の算法との関係及比較」を東北大学に提出して理学博士の学位を授与せられている。
博士の一生は篤学真摯、偏に真理の探究に終始し、名利の外に超然として妄りに世俗との妥協を許さず、高邁なる精神を堅持せられたので、戦時に際し諸般の困苦と闘われることも多かったが、不幸にも、戦乱のうちに夫人を失われ、加うるに敗戦後、農地制度の変革によって父祖伝来の田地を喪失せられ、1950(昭和25)年12月31日郷里において孤高無援の裡に寂しく生涯を閉じられた。享年75歳、法名を理学院教導仙居士という。
思うに三上博士は東洋数学史の開拓者として我が国が世界に誇るべき科学史家であり、その一生の述作は質量ともに比類を絶し、燦として世界の科学史学界に輝いている。年来博士の学徳を欽慕する。我々は、相謀ってここに、この記念碑を建立し、博士の偉大なる業績を永遠に伝えるとともに、限りなくその高風を讃えるものである。
1958(昭和33)年10月26日 社団法人 全国珠算教育連盟
三上義夫(みかみよしお:1875-1950)
数学史家。広島県高田郡甲立村*(現・安芸高田市)生まれ。東京帝国大学文科大学哲学科卒。
和算および日本と中国の数学史を研究。著「文化史より見たる日本の数学」「東西数学史」など。
1889(明治22)年4月1日市町村制施行時。(高田郡)小田村・甲立(こうたち)村。
1926(大正15)年1月1日甲立村が町制施行で甲立町。
1956(昭和31)年4月1日甲立町+小田村=甲田町。
2004(平成16)年3月1日高田郡全6町が合併=安芸高田市。
原爆関連慰霊碑巡りをはじめた当時からこの三上義夫博士顕彰碑があることは知っていましたが、原爆関連の碑ではないことから碑文を読むこともなかったのですが、碑文を読むと和算史研究者として偉大な功績を残した博士だったことを知り、平和大通りぶらり散歩の頁を編集してきていることから2007年の今頃になりましたが、以前撮影した画像の保存がわからず改めて撮影し編集しました。
後側から撮影した画像がないので2014年撮影していましたが忘れていました。2017年になりましたが、更新しました。
17.01.07.更新    07.10.21裕・紀編集

07.06.16.撮影
広島市中区中町側平和大通り緑地帯

07.06.16.撮影
三上義夫博士顕彰碑 神測妙算※ 學貫天人       文学博士佐伯好郎 書 ※:算=竹+王+廾

07.06.16.撮影

07.06.16.撮影

14.11.18.撮影
平和大通り越に「広島市医師会原爆殉職碑」がみえます

14.11.18.撮影



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