博士はやがてこの方法を中国の数学にも適用され、その成果は「支那と日本との数学の発達」(英文)、「支那数学の特色」「畴人伝論」、「支那数学史」など一連の論者となって世に送られ、中国及び欧西科学史家の高く評価するところとなり、1929(昭和4)年国際科学史委員会会員に選ばれるに至った。かくて博士の学殖は愈々富み、その名声は日に昂まり、1933(昭和8)年には招かれて東京物理学校講師となり、次いで教授に進み、多くの子弟に和漢の数学史を講じられた。博士の学的精力は晩年に及んでも少しも衰えず、「圓理の発明に関する論証」(1930年)など、関流数学に関する綿密な研究を発表せられ、和漢の巧緻な観念的性格は博士の手によって完全に科学的に解明されることとなった。1949(昭和24)年には、学位請求論文「関孝和の業績と京坂の算家並びに支那の算法との関係及比較」を東北大学に提出して理学博士の学位を授与せられている。
博士の一生は篤学真摯、偏に真理の探究に終始し、名利の外に超然として妄りに世俗との妥協を許さず、高邁なる精神を堅持せられたので、戦時に際し諸般の困苦と闘われることも多かったが、不幸にも、戦乱のうちに夫人を失われ、加うるに敗戦後、農地制度の変革によって父祖伝来の田地を喪失せられ、1950(昭和25)年12月31日郷里において孤高無援の裡に寂しく生涯を閉じられた。享年75歳、法名を理学院教導仙居士という。
思うに三上博士は東洋数学史の開拓者として我が国が世界に誇るべき科学史家であり、その一生の述作は質量ともに比類を絶し、燦として世界の科学史学界に輝いている。年来博士の学徳を欽慕する。我々は、相謀ってここに、この記念碑を建立し、博士の偉大なる業績を永遠に伝えるとともに、限りなくその高風を讃えるものである。 |
| 1958(昭和33)年10月26日 社団法人 全国珠算教育連盟 |
| 原爆関連慰霊碑巡りをはじめた当時からこの三上義夫博士顕彰碑があることは知っていましたが、原爆関連の碑ではないことから碑文を読むこともなかったのですが、碑文を読むと和算史研究者として偉大な功績を残した博士だったことを知り、平和大通りぶらり散歩の頁を編集してきていることから今頃になりましたが、以前撮影した画像の保存がわからず改めて撮影し編集しました。 |
| 07.10.21裕・紀編集 |