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中区八丁堀のYMCAによって育てられている株分けされた「被爆したハマユウ」です。 |
爆心地から東へ約2kmの地点に市街地を見下ろす高さ70mほどの小さな比治山があります。当時ここには、陸軍船舶砲兵団(通称:暁部隊)の隊員1500名ほどが駐屯していました。その1人が兵長の尾島良平さんです。
隊員の食事を担当していた尾島さんは、食材の買出しにでかけたとき、広島市の西にある己斐町で農業を営む橋本一太さんから、めずらしいハマユウの株をもらい、比治山の兵舎の横に植えていました。それは、ゆりのように花弁が円錐になったインド・ハマユウでした。 |
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比治山も1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原爆の直撃を受けました。
買出しに出かける直前の尾島さんは爆風で吹き飛ばされ気絶し、胸の骨三本を折りましたが、兵舎の陰にいたため幸いな事に火傷はせず命に別状はありませんでした。何人もの戦友が重症を負い、また亡くなりました。
兵舎は跡形も無く崩れ何本もの大木が折れ、葉をなくして立ち枯れのようになった木々が続いていました。
戦争がおわり尾島さんは胸の骨折を治し元気になった11月に比治山を訪ねました。
尾島さんは、崩れた兵舎の前で亡き戦友を偲びつつ手を合わせました。ふと見ると瓦礫の間から細長い緑の葉が出ていました、ハマユウでした。原爆で焼き尽くされたものと思っていましたが、新しい葉を伸ばし生きていたのでした。さっそく瓦礫を取り除いて球根を掘り起こし、それを実家の鎌倉に持って帰りました。
庭にハマユウを植えて水を与えるとだんだん元気になり、被爆前のように初夏には白い花を咲かせるようになりました。尾島さんはこの被爆したハマユウを「破魔勇」書きました、原爆にも負けない力は、悪魔も打ち破るほどの勇ましさであると表現したのです。そして純白の花を咲かせ甘い香りの被爆したハマユウを、核兵器の脅威がこの世からなくなるまで、反核・平和のシンボルとして世の中に広げようと決意しました。知り合いの被爆者が亡くなると、墓前に被爆ハマユウを植えました。
さらに広島の平和記念公園、神奈川県大船の被爆慰霊碑、ビキニの水爆実験で死の灰を浴びた第五福竜丸などのもとに運び、平和の願いを込めて植えていきました。
1979(昭和54)年尾島良平さんは69歳で亡くなりました。その後長男の真次さんが被爆ハマユウを守り育ててきました。1995(平成7)年から尾島良平さんの意思を被爆ハマユウ・クラブが引き継いで反核・平和のため被爆ハマユウの普及に努めています。 寄贈:被爆ハマユウ・クラブ 2006(平成18)年8月4日 |
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※資料は設置の説明板を参考に趣旨は変えていませんが表現は原文そのままではありません。 |
2007年2月交流ウォークの時以前はなかったこの被爆したハマユウ(から株分けされた)ハマユウが植えられていることに気がついたのです。いままで『元日本陸軍の兵士が見つけ、鎌倉市の自宅で育てた。』ということは平和記念公園の被爆したハマユウを頁に編集した時に知ったのですが、その方が尾島良平さんであったことなどは知りませんでしたので被爆したハマユウに込められた想いの一端を知ったのでした。 |
2011年訪ねた時にこの印度ハマユウがなかったのです。撤去されたのかと思って北側に行っている時に移設された事を知りましたので、撮影していました。
2014年のいまになりましたが、移設されていたこの印度ハマユウの画像を追加し頁を更新しました。 |
2015年「YMCA原爆瓦記念柱碑」と(株分けされた)被爆インドハマユウを撮影しましたので、この頁も更新しました。 |
15.06.29.更新 07.06.25裕・記編集 |