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福山市神辺町大字川北に建立されている「神邉驛跡・碑」です。
※この碑には、菅茶山の神邉驛と題する漢詩が刻まれています。 |
此の地は、山陽道の宿場驛の跡と云はれ、又太閤秀吉(1536-1598) が朝鮮役よりの歸途立寄った館の跡と云はれております。尚、明治以降川北村役場が置かれた處なり |
旧山陽道 神邉驛跡 「太閤屋敷あと」 |
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平成9(1997)年11月 備後織物染色工業協同組合 |
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數
戸
村
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毛
利
營
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一
區
蔬
圃
羽
柴
館
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空
濠
荒
驛
半
榛
荊
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黄
葉
山
前
古
郡
城
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黄葉山(こうようざん)前は古い城下町、
濠の水は涸れ、宿場はすたれて雑木が茂っている。
ひとくぎりの野菜畑はかつての羽柴秀吉の泊まった館の跡、
また数戸(五、六軒)の煙のたっているあたりは毛利軍の陣営跡だ。 |
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菅茶山(1748-1827) |
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豐臣秀吉(1536-1598):木下藤吉郎→羽柴秀吉(≒1573〜1586)→豊臣秀吉 |
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1889 |
明治22年4月1日 |
市制町村制施行時、神辺町域には安那郡の上竹田村、川北村、川南村、下竹田村、中条村、道上村、御野村、八尋村、湯田村がありました。
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1898 |
明治31年10月1日 |
深津郡と安那郡が統合して深安郡となりました。 |
1929 |
昭和4年3月1日 |
川北村と川南村が合併して神辺町が成立しました。 |
1954 |
昭和29年3月31日 |
神辺町と竹尋村(1941年上竹田村+下竹田村+八尋村)、中条村、道上村、御野村、湯田村が合併して新しい神辺町になりました。 |
2006 |
平成18年3月1日 |
深安郡神辺町は、福山市に編入し消滅。 |
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2009年乗り放題切符で訪ねた神辺町でした。主目的は頼山陽(1780-1832)が塾頭をしたこともある菅茶山(1748-
1827)が開いた「廉塾」に行ってみることでした。
JR神辺駅から廉塾への途中に「神辺本陣」を見学した後、ぶらり散歩しているときに道端にこの「神邉驛跡」石柱をみましたので立ち止り刻まれた文字を読んでみました。
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ここ神辺に、秀吉が泊ったのは朝鮮出兵の時を指すのでしょうから既に豊臣姓だったと思うのですが、茶山先生は、江戸時代(徳川の代)だから、あえて羽柴と詠み、豊臣は滅び、中国地方を制覇した毛利も既に周防国・長門国へ減封されてしまっている、時代の移ろいを思い未来の展望に思いを巡らしておられた茶山先生ではなかったのかなと(わたしは勝手に)思ったのですが。 |
川北村(高屋川の北に位置する事から名付けられたのだろうと思いました)の村役場が置かれたとありましたので、川北村(神辺町)の歴史をチトひも解いてみました。 |
10.05.31裕・記編集 |