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福山市神辺町大字川北に建てられ残されている「廉塾ならびに菅茶山旧宅」です。 |
特別史跡 廉塾ならびに菅茶山旧宅 昭和28(1953)年3月31日指定 神辺町教育委員会 |
廉塾(れんじゅく)は、1781(天明元)年頃に菅茶山が開いた塾で、講堂・寮舎・居宅・書庫・菜園・養魚池があります。講堂は3部屋20畳敷きで、東に竹と板を組み合わせた濡れ縁と、円形と方形にくりぬいた「方円の手水鉢」があり、高屋川から引いた水路を隔てて3室の寮舎があります。
菅茶山は、宿場町神辺の東本陣に生まれ、京都で朱子学を学び神辺に塾を開き、全国から学生が集まりました。また、菅茶山は「当世随一の詩人」ともいわれた漢詩人で、困窮時に備えて米麦を蓄えておく朱子社倉法を実践した社会事業家でもありました。多くの文人が廉塾に立ち寄り、神辺に文化の華が開きました。当初、「黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)」と呼ばれた私塾でした、1796(寛政8)福山藩の郷校(弘道館の分校)となり「神辺学問所」とも「廉塾」とも呼ばれました。 |
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かんちゃざん
菅茶山
1748-1827
〔茶山は「さざん」とも〕 |
江戸後期の漢詩人。本姓菅波。名は晋師(ときのり)。備後の人。
京都の那波魯堂(なば ろどう:1727-1789)に程朱学を学び、神辺に帰郷して黄葉夕陽村舎(のちの廉塾)を開く。写実を旨とした清新な詩風で知られ、ことに田園詩が名高い。頼山陽(1780-1832)の師。著「筆のすさび」「黄葉夕陽村舎詩」など。
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都講(塾頭)に、
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仲立大蔵、藤井暮庵(1767-1844)、頼山陽(塾頭在任:1809-1811)、北条霞亭(1780-1823)、門田朴斎(1797-1872)らがいました。 |
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1807(文化4)年神辺大火で菅茶山居宅は全焼しましたが、塾はまぬがれたそうです。 |
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2009年JR乗り放題切符で訪ねた神辺町でした。主目的は頼山陽(1780-1832)が塾頭をしたこともある菅茶山(1748-
1827)が開いた「廉塾」に行ってみることでしたので、たどり着いたなと思っていると、女性から声を掛けられました。ボランティアガイドの方で、この廉塾の事を少しばかり予習してきたわたしでしたが、よく知らない菅茶山の事や「方円の手水鉢」等いろいろと説明をしていただき親切に案内していただました。 |
※平成18(2006)年3月1日深安郡神辺町は福山市と合併して福山市神辺町となっています。 |
10.06.02裕・記編集 |
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広島県福山市神辺町大字川北640-3他 (谷口屋本舗の先の方が廉塾) |
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文化財保護委員会 昭和25(1950)年11月建設 |
寮生たちはこの畑で野菜を育て、自給していたそうです |
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「廉塾(養)魚池 政酉杪冬為」 (寛)政酉=1789(寛政元)年、杪冬(びょうとう)=陰暦12月。
食用として養魚池だったのでしょうが、防火用水の役割もしていたのでしょうね。 |
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廉塾の講堂 |
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「水路と筆洗い場」 講堂の前に流れる水路で、塾生はここで筆を洗ったといわれています |
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「方円の手水鉢(ほうえんのちょうづばち)」
水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、人も教育によってよくも悪くもなると教育の大切さを表したものだそうです |
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(説明板の図をしようしました) |
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09.10.12撮影 |
(菅茶山)居宅は、桟瓦葺、2階建 |
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