かんちゃざんのはか
菅茶山之墓

  福山市神辺町大字川北に建立されている「菅茶山之墓」です。
1940(昭和15)年2月23日広島県史跡に指定されています。
菅茶山は80歳で没し、その墓碑碑文は頼杏坪撰ならびに書だそうです。
菅茶山(かんちゃざん:1748-1827)  〔茶山は「さざん」とも〕 
江戸後期の朱子学者、漢詩人。本姓菅波(すがなみ)。名は晋師(ときのり)。字は禮卿(れいけい)。通称は太中。号が茶山。備後国安那郡川北村出身。農業・酒造業を営む菅波樗平(ちょへい)の子。
1766(明和3)年19歳の時、京都の那波魯堂(なばろどう:1727-1789)に朱子学を学び、1781(天明元)年郷里で私塾・黄葉夕陽村舎を開きました。1796(寛政8)年福山藩は藩立の郷塾とし、(公式には)神辺学問所と呼ばれましたが、一般には廉塾と称せられました。茶山は朱子学者で詩文に卓越し、藩史福山志料の編集を行いました。当時、山陽・南海の諸国から来て学ぶ者が多く、頼山陽(1780-1832)も門下生のひとりでした。今日、講堂・寮舎が茶山の居宅とともによく旧観を維持し郷塾としては数少ない遺例だそうです。京都の那波魯堂に程朱学を学び、神写実を旨とした清新な詩風で知られ、ことに田園詩が名高い。著「筆のすさび」「黄葉夕陽村舎詩」など。
2009年乗り放題切符で訪ねた神辺町でした。主目的は頼山陽(1780-1832)が塾頭をしたこともある菅茶山(1748- 1827)が開いた「廉塾」に行ってみることでした、そして時間的にもお墓に行く時間はあるなと思っていましたので、「菅茶山之墓」に立寄りました。
「廉塾」から「菅茶山之墓」に向かっているとき、「菅茶山墓碑」への案内道標を(わたしは)2箇所みましたので撮影しました。建立年は分かりませんでしたが、広島県史跡に指定された1940年頃かなと思っているのですが。
菅茶山一族の墓地で、(説明板もなく)どのお墓が茶山のお墓かがわからず、墓地の端ではないだろうとは思いましたが、隅の方から墓碑をみて行きましたが、格子扉が付いており開ければ扉が壊れそうなので、桟の隙間から見ていきました。やっと茶山の文字を刻んだ墓碑がありました。桟の隙間から頼杏坪の碑文が写らないかと撮影しましたが巧く撮影できませんでしたので「茶山」の文字だけをこの頁に掲載しました。
此の墓地で一番の有名人・菅茶山の墓碑ですので、一番立派な佇まいの建物を探せばすぐに分かったろうにと、菅茶山のお墓を撮影しながら思ったのでした。
※平成18(2006)年3月1日深安郡神辺町は福山市と合併して福山市神辺町となっています。  10.06.03裕・記編集
























09.10.12撮影
広島県福山市神辺町大字川北  (でみた菅茶山墓碑への道標)

09.10.12撮影
墓地はここからはすぐでした

09.10.12撮影
広島県福山市神辺町川北(黄葉山麓)

09.10.12撮影

09.10.12撮影
そこここで菅茶山先生などの敬称を略しています



「広島ゆかりの人たちのお墓」編


「頼山陽関連」編



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