重政誠之翁顕彰碑

  福山市神辺町大字川北の天別豊姫神社境内に建立されている「重政誠之翁顕彰碑」です。
明治30(1897)年3月20日(広島県深安郡)神辺町川南に生れる。福山誠之館中学校、第六高等学校、 東京帝国大学法学部を卒業。農商省に入り肥料課長、総務局長、農村事務次官を経て、昭和27(1952)年広島県第三区より政界に進出、衆議院議員当選六回、自民党総務政調会副会長、代議士会長等歴任、昭和37(1962)年池田内閣の農林大臣として農政の父としてひろく敬慕される。その間三川ダム(世羅郡世羅町)の建設備後地方発展のために貢献された。
その功績から従三位勲二等旭日重光賞を授けられる。昭和56(1981)年6月3日84歳の天寿を全うされた翁の遺徳を偲びこの碑を建立して後世に顕彰する事を伝える
 昭和56(1981)年11月吉日 顕彰碑建立実行委員会
(しげまさ せいし)
重政 誠之:
(1897-1981)
小磯内閣の農商次官、農業報国会理事、東久邇内閣の農林次官を歴任、商工省の岸信介とともに官僚の双璧と言われた。戦後は占領軍に公職追放され、1948(昭和23)年には昭和電工疑獄事件で嫌疑がかけられ逮捕される(その後無罪)。
農商務省時代に、当時朝日新聞記者だった河野一郎と親交を持ち、自民党では河野派(春秋会)に所属、派閥の金庫番、或いは代貸し的な存在となった。
1965(昭和40)年7月河野の死後、旧河野派(春秋会)代表幹事・最高顧問格として派閥の実質的なトップとなるが、社長と親交のあった共和製糖に、農相時代に払い下げた国有林を担保に、同社が農林中央金庫から不正融資を受けていた事件が発覚し(共和製糖事件)、事件への関与が疑われ国会で追及を受けたことも影響して、指導力が失われた。この過程で、1966(昭和41)年12月に中曽根康弘らが「新政同志会」を結成し、旧河野派の多くを引き連れて派閥を離脱したこともあり、重政は森清に春秋会の実権を譲った。
1967(昭和42)年一連の政界黒い霧が注目を集める中行われた第31回衆議院議員総選挙では、「事件はマスコミのでっち上げだ」と訴えて6回目の当選を果たしたが、1969(昭和44)年第32回衆議院議員総選挙では落選し、政界を引退した。1981(昭和56)年6月3日死去。享年84。
菅茶山の墓地から、天別豊姫神社に立寄ろうとした時、境内の端で見た石碑でした。近づいてみたのです。
福田 赳夫(1905-1995:総理在任1976-1978)が揮毫した石碑でした。
帰宅後調べると在任中では無いので、元内閣総理大臣としなくてはならなかったのだろうと思いましたが、福田赳夫揮毫の石碑を(わたしが)みたのははじめてでしたのでこの頁を編集しました。
※平成18(2006)年3月1日深安郡神辺町は福山市と合併して福山市神辺町となっています。  10.06.10裕・記編集

09.10.12撮影
広島県福山市神辺町大字川北142-2  天別豊姫神社境内

09.10.12撮影



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