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東区二葉の里の饒津神社境内に祀られている「泉邸今中稲荷大明神」です。 |
宝永5(1708)年2月綱長が死去しました。その跡をついだ浅野五代藩主吉長は、正徳3(1713)年5月(現在の縮景園)園の中央、池の北側の山に稲荷神社を祀りました。(後に泉邸稲荷と称されるものです。昭和20(1945)年8月6日原子爆弾で焼失しました)。
吉長は、同(1713)年9月22日に縮景園を訪ね、稲荷神社を祀った山を寄福山(きふくさん)と名付けました。
稲荷神社は、寛政12(1800)年正一位の神階を授かりました。 |
現在の縮景園内に稲荷神社跡があります。
『1945(昭和20)年8月6日8時15墳米軍投下の原子爆弾によって壊滅状態になった縮景園であったのですが、1962(昭和37)年頃から広島県教育委員会は順次破壊した建物などを復元整備したと聞きます。その中で稲荷神社は跡のままですのでどうしてかなと思っていたのです。』が
宗教施設を教育委員会としては復元できないことを交流ウォークの時会長に教えていただいたのです。そして、一月の交流ウォークの時饒津神社境内に稲荷神社が復興されていることも教えていただいたのです。 |
広島県神社誌をみていると、摂末社として「泉邸今中稲荷大明神」の記載がありました。
社名から泉邸つまり今一般に呼ばれている縮景園の今中稲荷社とわかりましたので、社名を加筆しました。 |
11.02.28更新 06.04.24裕・記編集 |