「縮景園行幸記」碑

  中区上幟町の縮景園に建立されている「縮景園行幸記」です。
*明治27・28年日清戦争時大本営が広島城内に設置され明治天皇が滞在されました。
             その間に、縮景園にも行幸された記念碑として建立されたものだと(わたしは)思っていますが。

明治に建立された石碑には珍しくひらがな混じりの碑文になっています。
(碑文自体が薄くなっていることとくずされた字体ですのでわたしには判読できませんでしたが)
明治廿七年清國という文字も刻まれ、侍從長兼内大臣正二位勲一等徳大寺實則題、正六位勲六等文學博士黒川真頼撰の文字も刻まれているようです。
碑裏には明治二十九年十一月建之の文字ははっきりとわかりましたので1896(明治29)年11月建立された碑ということがわかりました。

広島県教育委員会発行『縮景園史』にこの「縮景園行幸記」碑の碑文が掲載されているだろうと思ったのですが「臨啓碑」とともに記述がありませんでした。
碑の建立時期と明治天皇(1852-1912)の(直近の)行幸を考えると、
1894(明治27年)8月日清両国に戦端(日清戦役)が開かれ、9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、大本営が設置されました。明治天皇の広島滞在は1894(明治27)年9月15日から1895(明治28)年4月27日までの7ヶ月に及びました。
その折
、縮景園は大本営副営に指定され明治天皇が来園されています。
そのことに関する記念碑かなと(わたしは)思いました。
また国文学者・黒川真頼の撰文ということからひらがな混じりの碑文になったのではないのかとも思いました。
(とくだいじ さねつね)
徳大寺実則:
(1840-1919)
幕末から明治期の公卿・官僚。
尊皇攘夷派の公卿で1862(文久2)年国事御用掛、翌(1863)年議奏となったが、1863(文久3)年8月18日の政変に関与謹慎。王政復古後、1868(慶応4)年1月に明治政府の参与・議定、内国事務総督兼務、2月内国事務局督、1869年(明治2年)内廷職知事、ついで大納言。
1871(明治4)年宮内省入り、侍従長・宮内卿を兼任。1891(明治24)年内大臣兼侍従長となり、明治天皇の側近として天皇が崩御するまで補佐した。
(くろかわ まより)
黒川真頼:
(1829-1906)
江戸時代・明治時代の国学者・歌人。旧姓は金子。
1879(明治12)年東京大学法学部文学部講師を嘱託される。1888(明治21)年文学博士授与。1889年〜1890年頃より皇典講究所・國學院大學でも教鞭をとる。
1888(明治21)年宮内省御歌所寄人を経て、1893(明治26)年帝国大学文科大学教授(国語学国文学国史学第三講座担当)。
09.03.21裕・記編集

08.03.01撮影
広島市中区上幟町2-11   園内西側通路根際梅林の中に建立

07.02.17撮影

08.05.05撮影
碑表 碑裏
(ぎょうこう)
行幸:
〔「ぎょうごう」ともいい、行き先が二か所以上のときは「巡幸」という〕
(☆天子が行かれるところは幸福がある意)
天皇が出かけること。みゆき。
(ぎょうけい)
行啓:
古くは「ぎょうげい」。「啓」は先払いの意〕
皇太后、皇后、皇太子皇太子妃皇太孫が外出すること。



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