日本原水爆被害者団体協議会・略史

  この頁では、「日本原水爆被害者団体協議会の略史」について取り上げました。
被爆者の思いを結集し核兵器廃絶を目指し平和の実現に向け結集したことはとても勇気がいったこととわたしは思います。
運動ともなればお金の出所の政党、労働組合などなどの思惑に振り回されることも多かったと思います。
運動の前面に出て批難を受ける事も多々あったであろうと、ご苦労をされたと思いますが、被団協結成50年を迎えた今こそ、思想の違い、過去のわだかまりがあろうとも一つの方向を向いて、核兵器のない世界の実現を願ってこの頁を作成しました。
わたしのお袋は広島駅裏の軍施設で被爆しました。
平和への思いは誰にもまけないくらい強いものがあると思うのですが、自分の考えを他人(ひと)に押し付けることはなかったように思っています・・・・息子のわたしも人様の前に出て発言することはありませんが核兵器のない21世紀になることを願っています。
06.07.20裕・記編集
1956(昭和31)年8月10日 日本被団協結成大会宣言
 原爆から11年あまりたった今になって、私たちは、はじめてこのように全国から集まることができました。あの瞬間に死ななかった私たちが今やっと立ち上がって集まった最初の全国大会なのでございます。今日までだまって、うつむいて、わかれわかれに、生き残ってきた私たちが、もうだまっておれないでてをつないで立ち上がろうとして集まった大会なのでございます。
 私たちがこのような立ち上がりの勇気を得ましたのは、全く昨年8月の世界大会のたまものであります。あの大会で同胞の皆さんや、世界の皆さんたちにかすかな声が聞きとられて、私たちに温かいまなざしが向けられ愛の手がさしのべられはじめてから、私たちは急に元気づいてまいりました。私たちはこの機会に全世界の皆さんたちに心からの感謝と立ち上がりの決意とを披瀝したいと存じます。
 又、私たちのこの感謝と決意の言葉は、あの瞬間に無残な死をとげ、又、その後のろうべき原爆症でつぎつぎに死んでいった30数万の父や母、息子や娘、夫や妻たちの声なき声に代っての言葉としてお受けとりいただきたいのです。
 私たちは今日の集まりで亡き人々をしのび、又長い年月のかぎりない思いを互いに語り合いました。しかし、私たちの胸につもったかなしみと怒り、悩みと苦しみについてのつきることもない語り合いは、決してひとときのなぐさめや、きやすめのためではありませんでした。手をつないで決然と立ち上がるためにほかなりませんでした。世界に訴うべきは訴え、国家に求むべきは求め、自ら立ち上がり、たがいに相救う道を講ずるためでありました。
 かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります。
 私たちは今日ここに声を合わせて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそ が、私たちの生きる限りの唯一の願いであります。
 それにもかかわらず世界の現状はかえって水爆競争時代に入ったかのごとく広島、長崎の原爆に千倍の威力をもつ水爆の実験さえ行われています。私たちが「止めてくれ」と血の叫びを挙げているにもかかわらず、水爆実験は冷然として行われつつあります。原爆以来放射能の病いのおそろしさに直面してきた私たち、今年になってからだけでも早くも広島、長崎で数名の人たちが放射能の病いで死んでいった姿をまのあたりに見た私たちが、空気や水を放射能で汚染する水爆実験をどうして黙って見ておられましょうか。私たちはもはやいかなる力の前にも黙っていない覚悟です。
 私たちは、遂に集まることができた今日のこの集まりの熱力の中で、何か「復活」ともいうべき気持ちを感じています。私たちの受難と復活が新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から「生きていてよかった」とよろこぶことができるでしょう。
 私たちの感謝と決意を披瀝して、この大会から全世界におくる挨拶といたします。
宣言文は日本被団協の資料を参考にしました
日本被団協・略年表 政治的(政党・労組の)思惑に翻弄された被爆者の思い
1952 昭和27年 (昭和20年〜昭和27)米軍の占領統治
1955 昭和30年 広島市公会堂で原水爆禁止世界大会開催
1956 昭和31年5月 広島県原爆被害者団体協議会(被団協)が結成
昭和31年8月 被爆者団体の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が誕生
1963 昭和38年 日本原水協内の社会党系と共産党系勢力は、ソ連の核実験をめぐり「いかなる国の核実験にも反対」とする社会党と「防衛的立場の社会主義国の核実験を帝国主義国の実験と同列に論じるのは誤り」とする共産党のあおりを受けて対立。
1964 昭和39年 共産党系の広島県被団協が大会、県被団協が分裂
1965 昭和40年 社会党・総評系が「原水爆禁止日本国民会議(原水禁)」を結成
1973 昭和48年 共産党が「社会主義国の核実験でも反対する」と主張を転換
1977 昭和52年 原水禁と原水協が統一大会を開くことで同意、2つの広島県被団協が分裂後初の統一決起集会
1986 昭和61年 原水禁、原水協などの大会が9年ぶりに分裂
1997 平成9年 広島県被団協(伊藤サカエ理事長)の総会に、もうひとつの被団協(金子一士理事長)がはじめて出席。相互出席が実現
※広島県には2つの被団協があります



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