|
| 頼杏坪(らいきょうへい) |
儒学者。安芸国竹原出身。安芸広島藩士。長兄・頼春水、次兄・春風の弟。名は惟柔(ただなご)。通称万四郎。別号に春草、杏翁など。
春水にしたがい江戸服部栗斎(りつさい、儒者1736-1800)にまなぶ。1785(天明5)年藩儒に登用五人扶持。藩主浅野斉賢の侍講などをへて1811(文化8)年以後三次、恵蘇、奴可、三上の郡奉行、三次町奉行を命ぜられ250石となる。殖産を興し、租税を公平にし、賞罰を正し、社倉法を推進するなど、自らの平民出身の経緯を生かし修めた学問の実践に努めた。「芸備孝義伝」「芸藩通志」など藩の編集事業にもあたった。著作に「原古編」「春草堂詩鈔」など。
|
多聞院は真言宗のお寺です。2004年7月交流ウォークで訪ね、御住職に案内・説明していただいた、頼家の墓所。
2004年10月から2007年4月にかけて中国新聞に掲載された見延典子さんの新聞小説「頼山陽」を楽しみに読んでいたわたしは、頼山陽の人間的魅力を感じることができ、また脱藩した兄春水の息子・山陽の才能を見抜き、江戸詰が多かった兄の親代わりとして何かと気にかけていたと、また必ずしも成功ばかりではなかったとはいえ(広島からみれば寒く雪も多い地)三次で民心の安定に心砕いた志の高い人物だったと伝えられています。 |
| 08.06.19裕・記編集 |
|
|

08.05.15撮影 |
| 広島市南区比治山町7-10 多聞院墓苑 |
|

08.05.15撮影 |

08.05.15撮影 |
篠崎小竹が撰した「杏坪頼先生墓碑」だそうですがわたしには読めませんでした
しのざきしょうちく
篠崎小竹
(1781-1851) |
江戸後期の儒学者。大坂の人。古賀精里(せいり:1750−1817)に学ぶ。仕官を好まず広く京坂の文人と交わり、特に詩文にすぐれていた。著「小竹斎文稿」「小竹斎詩鈔」など。 |
|
|
 |
| 杏坪頼先生之墓 |
|
|
|