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南区比治山公園に建てられ開館している「広島市現代美術館」です。 |
広島市現代美術館は、1989(平成元)年5月3日開館。
(昭和天皇が崩御されたその年は)広島市政施行100周年、広島城築城400周年にあたり、広島市内を見渡すことができる丘陵、桜の名所でもある比治山公園内に位置しています。
(わたしは訪ねたことはありませんが)古代ヨーロッパの広場を思わせるアプローチプラザと、外観の三角屋根は日本の蔵をイメージしているといわれ、建物の素材は地面から高くなるに従って、自然石、磨き石、タイル、アルミ、と現代的な素材へと軽やかに変わっていくように設計されているといわれています。
この現代美術館の事業は(館の資料をみれば)以下の4つの理念のもと、展開しているそうです。
1広い分野からの作品の収集・保存、2多種多様な展示、3活発な普及活動、4美術館の基盤となる調査研究活動 と云われています。 |
1986(昭和61)年5月比治山公園に、(株)黒川紀章建設都市計画事務所設計と云っても黒川紀章(1934-2007)個人の考えが主体の広島市現代美術館が清水・大日本土木・松本・錦・大互建設共同企業体によって起工式があったということを資料を調べながら思いだしていました。何度も訪ねみているとはいえ、広島ぶらり散歩「建物」編には編集してはいなかったのです。政治家を目指した建築家の黒川、2007年4月の東京都知事選挙、同(2007)年7月参議院選挙に出馬・続けて落選後10月失意のうちに亡くなった(とわたしは思う)のです。 |
わたしは、メタボリズム(新陳代謝)を唱えた黒川に丹下健三(1913-2005)を上回る才能を感じたことを懐かしく思い出しますが、無機物の建築物(群)、新陳代謝をすることもできず雨漏りがし老朽化した建築(群の思想)だったのかと思いながら、意匠家の願いを施工できなかったであろう施工屋・・・その端くれだったわたしの浅はかな考えだろうと思いながらこの項の締めくくりとしました。 |
2008年10月21日(火)午前7時半から正午まで、断続的に上空を飛行。5回にわたり広島市の上空に「ピカッ」の白い文字が飛行機で描かれたそうです(わたしは報道でしか知りませんが)。
東京の芸術家集団「Chim↑Pom(チン↑ポム)」(リーダー卯城竜太31歳)※1が、平和を訴える作品制作として原爆を意味する言葉を表現したといい、広島市現代美術館学芸員が其れを立会い許可をしていた※2そうです。
平和を訴える藝術手段と云う彼らの行為に市民や被爆者からは「不快だ」「気持ち悪い」との声が上がりました、またその行為に学芸員が許可を出していたことに、(この建物そのものの評価ではないし、その運用に関することではあっても)避けては通れませんので取り上げました。
原爆で多くの方々が亡くなり、今も原爆によって引き起こされた病と闘っておられる多くの方々の感情を逆なですることが、芸術の表現ではないと思うし、この広島市現代美術館の役割として市民が願っていることとは思わないから、(広島市民の一人であるわたしは)敢えてここに記述しました。 |
※1
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Chim↑Pom は、広島市民や被爆者の方々からの「悲しい思いをした」等など多くの声を受け止めて、2008年10月24
日被爆者団体の代表に「被爆者の方々に大変不快な思いをさせてしまったことをおわびします」という謝罪を行ったことを新聞などの報道で知りました。 |
※2 |
Chim↑Pomリーダーは「事前に被爆者の方々と話をしてイメージを膨らませ、飛行機を使って空にピカッを煙で描く方法を提案したところ、美術館・学芸員に市民に予告をしないままゲリラ的にやるのがいいと提案された」と話した。とも報じられています。
広島市現代美術館館長は、学芸員がその現場に立ち会っていたことについては謝罪したことを報道で知りました。 |
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敬称は略しました |
09.01.18更新 08.12.14裕・編集 |
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