頼山陽史跡資料館

  官民合同で1929(昭和4)年末に頼山陽先生遺蹟顕彰会が設立されました。
顕彰会は、1931(昭和6)年に没後百年祭典を実施し、1934(昭和9)年(頼山陽が脱藩後に幽居され「日本外史」を執筆した)居室を取得して修築保存を行いました。1935(昭和10)年12月最後の事業として寄付金を募り頼家屋敷跡に遺物資料を展示、山陽の偉業を伝えるための山陽記念館を建設しました。設計は佐藤功一(広島赤十字病院の設計者でもあった:1878-1941)、鉄筋コンクリート造、2階建、意匠は和風(木造風)な仕上げとなるように(陸屋根ではなく)傾斜をつけ瓦葺になっていました。
1945(昭和20)年8月6日被爆したとき西隣の日銀広島支店の陰になり、爆風は軽減されましたが、屋根スラブは部分的につぶされ屋根瓦は破壊され内部は全焼、(木造であった)居室も焼失しました。
顕彰会は、1949(昭和24)年残った躯体を使用して補修し翌(1950)年広島県に寄贈しました。建物は県社会福祉協議会、県埋蔵文化財調査センター、顕彰会などが使用しましたが、老朽化で1994(平成6)年解体され、1995(平成7)年頼山陽史跡資料館が新築されました。
ひな人形の展示を見に行くという交流ウォーク・増田先生と一緒に入館しました。
中庭が「文人庭」ということは以前入館した時にはじめて知ったのですが、今回は説明板も読み、椅子に座りガラス越しではありましたが、じっくり拝見しました。中國新聞に連掲された見延典子さん著「頼山陽」を毎回楽しみに読んでいたからか、今回は頼山陽の系図、経歴などの展示を見てもそれなりの理解度で見ることができました。
08.04.07裕・記編集

07.06.05撮影
広島市中区袋町5-14

08.03.15撮影
中庭
  頼山陽史跡資料館の庭園は、元大阪芸術大学学長・中根金作(1917-1995)の作庭による「文人庭」です。氏は足立美術館(安来市)やボストン美術館天心園など、生涯に三百余りの作庭を手掛け、20世紀後半の日本庭園設計の第一人者として国内外で高い評価を受けています。
この庭園は、平成7(1995)年の資料館建設に際して作庭されたもので、氏の遺作となりました。(1)竹類と景石を主要テーマとした玄関ホール奥の中庭、(2)アオギリなどの樹木に景石を配した和室奥の坪庭、(3)和室表の芭蕉を配した文人好みの茶庭の三庭が新たに作られこれらをあわせて(4)国の史跡「頼山陽居室」の前庭も整備されました。
頼山陽をはじめとした江戸時代の文人たちは、梅、竹、桐、芭蕉など、中国的な趣味に合う植物を取り入れた庭を楽しんだといわれています。この庭園は、こうした「文人庭」を紹介するため方向性を準公共的な場で示した最初の例とされています。

08.03.15撮影
敬称は略しました



「資料館など」編



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