(本通りの)西國街道・表示名板
  広島市中区本通の本通商店街舗道に西国街道町名等名板が埋め込まれています。
※その数は、9箇所設置されています。
(1)平田屋川 [並木通]  (2)平田屋町 [いとやの前]  (3)立町御門 [ローソン横の通]  
(4)播磨屋町 [キシダ写真の前]  (5)真鍋御門 [アンデルセン横の通]  (6)革屋町 [広銀裏通、和光の横]  
(7)東横町 [いづゝやの前]  (8)一丁目御門 [デオデオ横の通]  (9)西横町 [熊野筆センターの前]
以前は、東から平田屋町(ひらたやちょう)、播磨屋町(はりまやちょう)、革屋町(かわやちょう)、塩屋町(しおやちょう)、大手町二丁目、鳥屋町(とりやちょう)。
北へ目を転ずれば、東魚屋町(ひがしうおやちょう)、立町、研屋町(とぎやちょう)、紙屋町、横町(よこまち)、細工町(さいくまち)、猿楽町(さるがくちょう)・・・・と.。
住居を表示する制度を確立することにより、市民生活の便宜を向上させ、もって公共福祉の増進に資するため、1962(昭和37)年に「住居表示に関する法律」が制定されそれに従い、
広島市では1965(昭和40)年から、順次、住居表示を実施しているということで、城下町の名残を残した町名は、紙屋町、立町などのわずかな町名は残りましたが、おおくの町名は消えてしまいました。
2004年8月の交流ウォークの時教えていただくまでまったく知りませんでした、歩道を歩くということはどういうことだろうかと思ったものでした・・・ 今(2007)年広島ぶらり散歩「道路」編を編集したのですが、9箇所全部紹介しなくてはと撮影したのですが、やっと編集しました。
07.09.21更新  04.08.16裕編集

07.05.30撮影
平田屋川
(いまの並木通)
関連頁:中の棚橋

07.05.30撮影
平田屋川は、広島城築城の時に物資運搬などに利用された、(人工的に掘られつくられた)運河でした。

07.05.30撮影
西國街道
平田屋町
(いとやの前)

04.08.07撮影

07.05.30撮影
←立町御門
(ローソン横の通)


矢印方向に門がありました

04.08.07撮影

07.05.30撮影
西國街道
播磨屋町
(キシダ写真の前)

04.08.07撮影

07.05.30撮影
←真鍋御門
(アンデルセン横の通)


矢印方向に門がありました

07.05.30撮影

07.05.30撮影
西國街道
革屋町
(広銀裏通、和光の横

07.05.30撮影

07.05.30撮影
西國街道
東横町
(いづゝやの前)

07.05.30撮影

07.05.30撮影
← 一丁目御門
(デオデオ横の通)


矢印方向に門がありました

07.05.30撮影

07.05.30撮影
西國街道
西横町
(熊野筆センターの前)

04.08.07撮影
(さんよう どう)
山陽道:
古代、律令期における国の上部の地域単位である五畿七道の一つ、およびそこに設定された官道の名称。
中国地方の南側にあたり、734(天平6)年に安芸、周防の国境が定められて、播磨、美作(みまさか)、備前『延喜式』では以上近国)、備中、備後(以上中国)、安芸、周防、長門(以上遠国)が確定した。
美作以外の瀬戸内海側を京と大宰府を結ぶ古代の最重要路山陽道が貫通し、原則として駅馬20〜30疋(ぴき)が常備されていた。駅数は『延喜式』では合計54駅であった。
西国街道: 近世には京都と長崎を結び、江戸へ続く主要街道(大坂から下関に至る瀬戸内海に沿う街道)で、山陽道の名でも呼ばれている。
17世紀現在の形にできた西国街道は、当時陸上の大動脈として文化、社会の交流に役立っていた。
これが基になって、今の国道2号になっている。



「通り・街道」編 広島ぶらり散歩へ





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