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中区寺町の“明谷山・実相寺”に建立されている「廣島孤児院院児之合塔」です。 |
廣島孤児院院児之合塔 明治39(1906)年5月1日 |
廣島孤児院(現在・広島修道院)は、1889(明治22)年儒学者(尋常小学校校長)北村藤三郎が私財を投じて自宅で孤貧児を「清・慎・勤・倹・忍・和」の精神で養育をはじめました。しかし日露戦争後の不況で事業の廃止を決意しました。
そこで1919(大正8)年広島県(現在の広島市)の助成金など協賛会員の協力で財団法人が設立されました。1945(昭和20)年7月末、子どもたち数十名を安佐郡日浦村(現・可部町)公会堂に疎開させていたことで、8月6日原爆により肉親3名の方々が犠牲になり建物は全壊し廃墟になりましたが、子どもたちには被害はありませんでした。
1947(昭和22)年春仮設バラック建2棟で復興して行きました。1952(昭和27)年7月1日社会福祉法人の認可を受け、1987(昭和62)年現在の広島市東区尾長町に移転し、現在に至っています。 |
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※廣島孤児院の歴史は、社会福祉法人・広島修道院の資料を参考にしました |
敬称は略しました |
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合塔建立の実相寺は、爆心地から≒1,210mで、被爆当時町名も寺町でした。 |
被爆した墓石を拝見するので実相寺を訪ねたのです。本堂横を通って墓地に行くと、被爆したと思う石碑に目が行きました。明治39(1906)年建立のこの廣島孤児院院孤児之合塔でした。
根際の石柱に廣島修道院とありましたので、今(2009)年1月だったか中國新聞で広島修道院120年を祝う式典があったという報道をみていたなと思い、広島修道院の資料でその歴史を知りました。 |
09.10.14裕・編集 |