吉益東洞先生之碑

  南区霞の広島大学病院敷地内に建立されている「吉益東洞先生之碑」です。
顕彰墓碑由来記          昭和49(1974)年7月吉日  廣島漢方研究會
吉益先生(1702-1773)その名は為則、元禄15年5月廣島市銀山町に生まる。その人となり剛毅にして容貌魁偉眼光炯々として人を射たといわる。親試實験を以て証せられた自信により陰陽五行五運六氣等の憶説は悉く迷妄なりと断じ「萬病一幸」の説とその術をもって天下の醫を匡した。貧困の極その生命危殆に瀕するも疾醫の道を志すこと堅かりしというその著「類聚方」「方極」「方機」「醫事域間」「醫断」「薬徴」等何れも當時の醫學界を震撼せしめた。先生により拓かれた醫論は日本漢方界の傅統として今日も猶脈々として志ある人々の心中に生きつゞけ彼の偉大なる業蹟を讃える全國有志一同の厚き追慕の情により有縁寺坊の此の地に大塚敬節長老の書になる墓標建立の宿願を果し得たことは後學の我等には望外の慶びである。
吉益 東洞 (よします とうどう)  (1702-1773)
名は為則、通称は周助。
安芸国山口町(現在の広島市中区銀山町付近)出身の漢方医。37歳の時京都に上り、姓を畠山から吉益と改めた。古方派(こほうは:江戸時代前期、名古屋玄医提唱漢方薬術の一派)を代表する医であり、日本近代医学中興の祖。
万病一毒説を唱え、すべての病気がひとつの毒に由来するとし、この毒を制するため、強い作用をもつ峻剤を用いる攻撃的な治療を行った。この考え方を近代的で西洋医学に通じるものと評価されてもいる。
当初は、東洞の母方・谷氏の菩提寺(寺町の)報専坊の門のすぐ傍に建立されましたが、1994(平成6)年報専坊の本堂改築にともない移転しなくてはならなくなり、(東雲の)広島大学医学部のこの地に移転することになったそうです。報専坊の事を調べている時に、この吉益東洞先生之碑が報専坊に建立されていていたが、移転せざるを得なくなり広大医学部に移転した事を知ったのです。昨(2006)年交流ウォーク探検隊で広大医学部を訪ねた時にこの碑を撮影していたことを思い出し編集しました。
2010年広島大学医学資料館を見学している時、吉益東洞像が展示されていましたので、この頁に掲載しようと撮影していました。いまになりましたが追記しました。
12.03.13更新   07.09.30裕・記編集

06.09.20.撮影
広島市南区霞1-2-3  広島大学病院敷地内

06.09.20.撮影

06.09.20.撮影

10.06.03.撮影
広島大学医学資料館展示の吉益東洞像
この像は、西丸和義(1896-1990)教授定年退官記念として造られ寄贈された像だそうです



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