久保田万太郎:句碑

  2004(平成16)年この多宝塔が原爆精霊供養記念(祈念)で和歌山県の広(ひろ)八幡神社の境内に建立されていたものが移築されている事を知ったわたしでした。この多宝塔根際に久保田万太郎句碑が建立されていることも知ったのですが、句碑と思われる石碑を見ても読めませんでしたが、資料で刻まれた句がわかりました
  多宝塔の頁に一緒に編集していましたが、今回分離独立した頁にしました。
被爆後13年の1958(昭和33)年5月建立、三瀧寺多宝塔奉賛会が建立したこの句碑のために詠んだと聞く久保田万太郎(1889-1963) ・・・上の句に「焦土かく」と詠んだ心情をぼんやりと原爆慰霊の心を顕そうとされたのかなと考えながら、文豪といわれる人の心根がわからぬ情けないわたしでした・・・はじめて訪ねた2004年も今(2007)年も・・・
07.12.21再編集更新  04.11.29裕・編集

’07.11.21撮影
広島市西区三瀧山411   三瀧寺・多宝塔根際

04.11.20撮影

























久保田万太郎  (くぼた まんたろう)  1889-1963
小説家、劇作家、俳人。東京生まれ。生家は浅草で袋物製造販売業を営む。
府立三中(現両国高校)から慶応義塾大学普通部へ転じたころから、文学を志す。慶大在学中に、『三田文学』に小説『朝顔』(1911)を発表し、また戯曲『Prologue(プロロオグ)』が雑誌『太陽』の懸賞に当選(1911)したことから、三田派の新進作家として認められ、第一作品集『浅草』(1912)を刊行。1917(大正6)年、初期の代表的小説『末枯(うらがれ)』を書き、また、『大寺(おおでら)学校』(1927)などの戯曲や、新派の演出などを手がけて劇壇にも接近。1926年以降東京中央放送局(現在のNHK)に勤め、小説『春泥』(1928)、『花冷え』(1938)などの佳作や、第一句集『道芝』(1927)を刊行し、また築地座を経て文学座の創立に加わり、新派の舞台にも脚本を提供するなど、多彩な活動を繰り広げる。戦後は日本芸術院会員となり、1957(昭和32)年文化勲章を受けた。俳句はつねに余技と称したが、独特な情緒と技巧をもつ秀句も多く、戦後、俳誌『春燈(しゅんとう)』を主宰した。
関連頁:(浅草の)久保田万太郎誕生の地碑



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(三瀧寺)多宝塔
(多宝塔前の)原爆精霊供養記念石燈籠
(多宝塔根際の)久保田万太郎句碑





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