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南区仁保の西福寺に建立されている「赤穂義士武林唯七祖父治庵之墓」です。 |
治庵名士大明杭州武林郡人漂流仕長門國称孟二宮後仕藝藩為医官改武林治庵明暦三(1657)年丁酉五月十八日病死實 亞聖孟子六十一世裔也
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刻まれた文字から、孟二宮は長門国に漂着し医術に通じていたところから、広島藩に医者として仕え武林治庵と名乗り、1657年に病死した、また孟子から61代目の子孫であった。
※辞書にある文禄・慶長の役で捕らえられと伝えられていることと異なります。 |
渡辺 士式(わたなべ ことのり:?-1657)、通称は治庵。 |
もしくは武林治庵は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての人物。
明の人で、後に日本に渡来・帰化して医業、薬業で浅野家に仕えた。元の名は孟二寛。 |
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治庵の子・渡辺式重。
式重には男子が二人、兄・渡辺尹隆が渡辺家を継ぐ。次男の隆重は分家し、祖父が使った「武林」を家名とした。 |
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武林 隆重(たけばやし たかしげ:1672-1703)、通称は唯七。
赤穂藩では、中小姓15両3人扶持で仕えた。赤穂浪士四十七士の一人。 |
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交流ウォーク探検隊で訪ねた2007年12月西福寺でご住職の奥様に武林唯七祖父治庵のお墓があるということをお聞きしたのですが場所が判らなかったのですが、藤井先生が後日墓苑を訪ね、お墓の場所を探したのですよと交流ウォーク本番の時に教えていただき、撮影しました。
しかし、赤穂義士の一人である武林唯七からひも解かなければないほど四十七士に関する知識にわたしは疎かったのです。墓石に刻まれた文字を読んでいこうとしましたが遅々として進みませんでした。
今(2008)年3月になって訪ねた国泰寺で、大石りく、大石大三郎のお墓に頭を垂れたのですが、その時武林唯七祖父治庵之墓も根際にあることに気が付きましたので、未完のままにするわけにはいかないとない頭(知識)で頁を編集しています。 |
08.04.06裕・記編集 |