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西区己斐上の平原城跡の「二の丸、南郭跡」をこの頁で取り上げました。 |
己斐古(こい・ふる)城と呼ばれる岩原城と一対をなしています。
茶臼山(200m)全体を城郭とし、山頂部を本丸、南が大手(玄関に相当)、北が搦手(裏口に相当)、西に二の丸、下段部は東西南北の四隅に城郭が残されています。
天文3(1534)年城主己斐豊後守直之(師道の嫡子)は時の武田勢に及ばぬを悟り退散しました。この後、鉄砲の普及に伴いこの小さな城では山のふもとからでも攻撃されるため、廃城となりましたが、現在も堅固なとりでは残っています。 |
城は南側を大手、北側を搦手とし、山頂部には本丸・二の丸・空堀があり、山頂部を同心円形に囲んだ北・東・南・西の四郭および縦堀が、昔の姿を残しています。山腹に残されていた出丸跡や、ノミ跡のあった岩は宅地造成で惜しいことに、その姿を失ってしまいました。 |
この頁では、本丸跡すぐ下に位置する二の丸跡、少し下ってみた、南郭跡などを編集しました。
本丸≒西側に二の丸跡がありました。本丸跡と二の丸跡間には空堀跡があり本丸を守る役割で掘られたのでしょうね。
そこから、少し下ったところに縦掘跡・碑が建っていましたのでここが縦掘りかなと思いましたが、範囲というか長さや、形状は(歴史を)経た)いまは判然とはしませんでした。その奥に行ったところに南郭跡・碑が建っていましたので、この広場に南郭があったことが分かりました。 |
10.07.22裕・記編集 |