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西区己斐上の茶臼にある「己斐城跡 (平原城跡) 」をこの頁で取り上げています。 |
己斐城跡 (平原城跡) 所在地 茶臼山(200.2m) 現在通称 小茶臼 西区己斐上四丁目茶臼185 |
平原城跡は中世の山城跡で、己斐にある四城跡の一つで、地元では平原城跡、一般には己斐城跡、己斐新城、茶臼山城跡の名で知られています。
構築の歴史は鎌倉時代中期まで遡ると推定され、厳島合戦(天文24=1555年)当時まで要衝として争奪の渦中にまきこまれていましたが、以後は廃城※となりました。その間、永正12(1515)年武田元繁(1467-1517)に包囲された時、「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(房顕覚書)と記されており、その頃堅城を誇っていました。当時の城主は、己斐豊後守師道入道宗端でした。
「残る名に かなえば何か 惜しむべき 風の木葉の 軽き命を」(陰徳太平記)の辞世の歌を残し、有田の戦で討死しましたが、勇猛と義に厚い武将として著名で、その死が惜しまれました。その子・己斐豊後守直之は厳島合戦のとき、要害山・宮ノ城にたてこもった毛利方の猛将として名を知られ、さらに己斐利右衛門興員は、後に広島城二の丸御番をつとめました。 |
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城は南側を大手、北側を搦手とし、山頂部には本丸・二の丸・空堀があり、山頂部を同心円形に囲んだ北・東・南・西の四郭および縦堀が、昔の姿を残しています。山腹に残されていた出丸跡や、ノミ跡のあった岩は宅地造成で惜しいことに、その姿を失ってしまいました。
「平原・岩原、この二墟を茶臼山と称す」と芸藩通志に書かれている「岩原城跡」は、旭山奥に今もあり、「ふるじょう」と呼ばれています。当城跡背後の大茶臼は「立石城跡」であり、さらに己斐峠をおいて左方に「柚ノ木城跡」が見られます。
茶臼山は己斐の要の位置を占め、且つ昔は東・南側とも山麓まで海が迫っていました。城跡山頂に立つ時、「平原城は太田川口を扼す海城的性格をもった山城です」という立地条件が、よく理解出来きます。
この城跡を身近かな文化財として、大切にしましょう。なお、推定ですが、往時の「船溜り」は現在の己斐中一丁目の「仲の御前社」附近にあった事でしょう。東郭の桂原天神は古くから祀られていましたが、寛延元(1748)年旭山に遷され、三国屋天神(知新集)、更に後年、己斐天神とも呼ばれ、有名でした。
昭和58(1983)年9月吉日 撰文 己斐の歴史研究会・主幹井上清 |
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1534(天文3)年城主己斐豊後守直之(師道の嫡子)は時の武田勢に及ばぬを悟り退散したこともあったそうです。時代は鉄砲が普及してきており、この小さな城では山のふもとからでも攻撃されるため、廃城となったとも云われています。 |
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2005年交流ウォークで平原城(己斐新城)跡をコースから見ただけでした。2010年になりましたが、交流ウォークの下見で、片岡会長と本丸跡まで上ってみました。本丸跡には(上記の)平原城に関する説明板が設置してありましたので、平原城跡・概説というこの頁を編集しました。当時編集していた平原城跡の頁は「己斐の街からみた平原城跡」とし、この頁の従頁としてとリンクさせました。 |
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10.07.17更新 10.07.06裕・記編集 |
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10.04.06撮影 |
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(くるわ)
曲輪;郭;廓: |
1)城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画。
{ 2)周囲を囲いで限られ、遊女屋が集まっている地帯。遊郭。遊里。さと。} |
(かく)
郭: |
1)城、とりで、都などのかこい。くるわ。 |
(とりで)
砦;塁;寨: |
1)本城から離れて設けられた小さい城。規模の小さい城。
2)外敵を防ぐために築造した建造物。要塞。 |
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