(古江)樽ヶ崎宮たるがさきのみや

  西区古江西町に鎮座している「樽ヶ崎宮」です。
神功皇后が三韓出兵の帰途、樽ヶ崎で俘虜の孝偶たちをこの地で降ろし、永く韓人たちを大事にするようにと里人たちに云い、明石城へ向かわれました。
食料は毎年朝鮮から送られ、孝偶たちはその事に感謝し小さな祠を建てたと伝えられるのがこの宮だそうです。
昔はこの地を樽ヶ崎(樽ヶ鼻ともいわれた)といわれる岬でした。
それは、三韓出兵の際、戦勝祈願で立ち寄った神功皇后の軍船を村人が酒樽をうず高く積み上げて迎えたことから、皇后を祀ることになったという云い伝えもあるそうです。
(じんぐうこうごう)
神功皇后:
記紀所伝の仲哀天皇(第14代)の皇后。気長足姫(息長帯比売)(おきながたらしひめ)の漢風諡号。仲哀天皇の死後、新羅(しらぎ)に出陣、凱旋ののち筑紫の地で応神天皇(第15代)を出産、69年間摂政(せっしょう≒天皇の名で国事行為を行う者)をつとめたという。
(さんかんせいばつ)
三韓征伐:
日本書紀に記載があり、神功皇后が行ったとされる新羅出兵を指しています。
新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれていますが、新羅征伐と云う場合もあり、征伐という言葉を避けて、三韓出兵、三韓遠征などと云われる事もあるようです。
樽ヶ崎宮は、神功皇后を祀っていることから「神功皇后社」とも云われているそうです。
記紀伝説上の人物に関するもので、伝説が伝説を生む事も考えられますが、古田村古江に樽ヶ鼻(樽ヶ崎)があり古江湾、西隣の草津浦は良港であったことは間違いなかったことから、いろいろな云い伝えがあってもおかしい事ではないのではと(わたしは)思っています。
10.06.16裕・記編集

10.05.08撮影
広島市西区古江西町24

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